
【80-生活】繰り返される豪雨災害 故・中村哲氏の治水意識に学べ|稲泉連
文・稲泉連(ノンフィクション作家)
「国土」や「地域」のあり方
作家の幸田文の随筆に『崩れ』という作品がある。齢70を超えた彼女が日本全国の山腹崩壊の現場を歩いたもので、富士山の「大沢崩れ」や安倍川の荒れ果てた上流域など、土砂崩れや川の暴れた後の風景が描写されている。同書のなかで、老いゆく自らの心情を目の前の風景に重ねつつ、幸田は次のような心の機微を吐露している。
〈この崩れこの荒れは、いつかわが山河になっている。わが、というのは私のという心でもあり、いつのまにかわが棲む国土といった思いにも繋ながってきている〉
7割が山地によって占められ、無数の河川が流れ下る日本の国土には、もとより水害や地震による「崩れ」が生じる宿命的な性質がある。近年は1時間に100ミリを超すような局地的な豪雨が相次ぎ、大規模な水害の発生も続く。
岡山や広島、愛媛などを中心に200人以上が犠牲となった2018年7月の「西日本豪雨」、千葉県を中心に鉄塔が倒れるなどの被害が出た2019年9・10月の台風災害――。2020年7月の豪雨では球磨川が氾濫し、人吉市や球磨村などが大きな被害を受けた。当時、場所によっては2日間で500ミリを超える雨量が記録されており、熊本県の死者・行方不明者は67名に上った。その多くが球磨川流域での犠牲で、浸水の深さは戦後最大の「昭和40年7月洪水」を上回るとされる。
こうした豪雨災害や土砂災害のニュースに接する度に、私は日本の国土が抱える性質を思い、幸田がその感性で捉えた〈わが棲む国土〉という哀切な感覚が胸に甦ってくる気がする。
豪雨による災害が起こると、一時期は報道でも治水のあり方に光が当てられる。だが、各地で起こる「50年に1度」「100年に1度」の災害もまた、しばらくすると風化が始まり、被災地の現状や課題の記憶は徐々に薄れてしまうものだ。ただ、立て続けに災害が発生する昨今は少しずつ変化の兆しも表れ、豪雨災害に対する国民的な関心が高まりつつあるのではないか。それは治水・利水事業を担う国や自治体が、現在の事業や防災のあり方をあらためて点検し、その方向性を広く提示していく機会でもあると思う。