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引退秘話 美空ひばりとサーベル襲撃 橋幸夫 聞き手・中村竜太郎

デビュー秘話から芸能界の裏側まで波乱万丈の芸能生活を語る。/橋幸夫(歌手)、聞き手・中村竜太郎(ジャーナリスト)

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橋さん

プロボクサーになりたかった

10月4日、80歳を区切りに歌手を引退すると表明し、記者会見を開きました。年齢相応に体はガタがきていますし、喉の筋肉も衰えますし、医師の診断でその兆候もありました。以前から自分がイメージするような歌が歌えないのであれば、歌手卒業もありかなと考えていました。

さだまさしさんはじめ多くの方に引き止められましたし、歌手に引退はないという意見もありますが、人生を総括する年齢になって、自分なりのけじめが必要な気がしたんですね。だから決められた日までは精一杯歌いますが、あとはきれいさっぱり。悔いはありません――。

あれは中学3年生のときでした。

「先生、僕、プロになるんですか?」「そうだよ。お母さんが、あれだけ“歌手にしたい歌手にしたい”って毎回言うし、とにかくいまレッスンをしているんだから。歌手の道もまた面白いぞ。頑張れよ」

母と兄に無理やり勧められて、遠藤実先生(戦後歌謡界を代表する作曲家、09年・国民栄誉賞受賞)の歌謡教室に週2回通っていたのですが、実は歌手になるつもりはまったくなかった。本当はプロボクサーになりたくて、ジムに通っていたんです。だからそう言われても内心は嫌で嫌でしょうがない。ところが僕の気持ちとは裏腹に、あれよあれよという間に歌手への道が敷かれ、運命の歯車が回っていったんですから、不思議なものですよね。1960年に『潮来笠いたこがさ』でビクターレコードからデビューし、歌手生活は60年超。振り返るといろんなことがありましたけど、歌謡曲全盛の昭和に歌手として活躍できたのは本当に幸運だったと感謝しています。

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運命の日にまさかの遅刻

僕は東京の下町・荒川区で呉服屋を営む両親のもと9人兄弟の末っ子として生まれました。子どもの頃の僕は元気がよくてヤンチャ(笑)。腕っぷしが強かったから周囲から「親分」と呼ばれるようになっちゃって、担任の先生や兄弟が「悪い仲間と遊んでいるらしい」と心配しだした。

「どうしたらいいか」と家族が相談していたら、たまたま隣の床屋の従業員さんが遠藤先生の歌謡教室の生徒で、「じゃあ、そこに幸男(本名)を通わせよう。中野にあるお店(支店)に住まわせれば、友だちとも会わなくなるだろう」と強引に決めちゃった。けれど僕、根がまじめだから家族の言いつけを守って、予科・本科・研究科と3年、歌の勉強を。生徒は60人ぐらいいて、そのなかで最年少の僕に遠藤先生が目をかけてくれて、どんどんオリジナル曲を書いてくれる。

「今度はプロだ。オーディションをあちこち受けるから覚悟しておきなよ」と励ましてくれるんだけど、僕はそこまでの自覚はない。ただ命じられたことを「はい」と返事して素直にやるだけ(笑)。デビュー前に度胸試しとして、何度かお祭りや盆踊りで歌ったり。

そしたら今度は、遠藤先生が所属する日本コロムビアへ連れて行かれ、何の前触れもなくオーディションです。村田英雄さんの『蟹工船』と『人生劇場』を歌ったら、ディレクターが「先生、この子はいくつですか?」「16歳です」「16? 若すぎるよな、ちょっと」。そしたら先生が「俺の愛弟子を、年齢を理由に断るのか」という感じでムスッとして「じゃあいい。今日はもう帰る!」。先生は外に出るとすぐあちこちに電話してオーディションやっているレコード会社を探して、1週間後にビクターに行くことになりました。けれどそれは、芸能界では考えられない異例のことでした。というのも当時はコロムビア、ビクター、クラウン、テイチク、キングなど各レコード会社が熾烈なライバル関係にあって、歌手も作詞家も作曲家も、バンド、オーケストラ、司会者にいたるまで全部レコード会社お抱えの専属契約だったんです。

コロムビア専属の遠藤先生が、自分の弟子を紹介しにビクターの敷居をまたぐなんてまずありえない。先生と一緒に電車を乗り継いで有楽町駅まで行って、そこから歩いて築地にあったビクターへ。ところが僕、その大事な日になんと遅刻しちゃってオーディションに間に合わなかった。けれどディレクターの方が「まあ聞きますよ」と特別に計らってくれて、歌い終わったら、コロムビアのときと同様「君いくつ?」。落とされんのかなあと思っていたら、「若いけど面白いかもなあ」と真逆の反応がきて、数日後に合格の電話が来ました。

「潮来笠」が読めなかった

ビクターが僕のために選んだ作曲家は遠藤先生と並ぶ大作曲家で、“吉田天皇”と呼ばれた吉田正先生(98年・国民栄誉賞受賞)。ご存知のように、演歌中心の遠藤先生は島倉千代子や舟木一夫、千昌夫、森昌子、山本リンダなどを手がけ、ムード歌謡で鳴らした吉田先生はフランク永井や鶴田浩二、松尾和子、和田弘とマヒナスターズなどを育てた。お二人とものちに日本作曲家協会会長を務められた日本歌謡界の両巨頭です。

僕が吉田先生に初めて会ったのは北沢のご自宅に伺ったときで、一緒に付いてきてくれた遠藤先生も吉田先生とは初対面でした。

「はじめまして。橋です」「ああ、君か。若いんだねえ」「高校1年です」。

僕にとって恩師となる2人も、そこでは二言三言しかしゃべらない。帰り際、遠藤先生も不安げな顔をしていましたけど、すぐに吉田先生から「預かる」という朗報が。

遠藤先生が「せっかく俺が手塩にかけて育てた弟子が、ビクターに行っちゃうのかなあ」と無性に寂しがっていましたね。それから週1回吉田先生のレッスンを受け、あっという間にデビューが決まりました。最初4曲レコーディングしましたが、吉田先生に「どの曲がいい?」と聞かれたから『あれが岬の灯だ』という、僕が気にいった曲を選んだ。すると「まあな。やっぱり若いからだなあ。でもなあ、僕たちはこれがいいんだよ」と吉田先生が推したのは『潮来笠』でした。

「いたこがさ」と読めなくて、最初「しおくるかさ」と読んじゃった(笑)。でも、なぜこの曲なんだろう。すると吉田先生が「君のことをあまり深くは知らなかったけど、江戸っ子だよな?」「はい、そうです。親父は滋賀県ですが、僕は生粋の江戸っ子です」「そうだよな。だから、“らりるれろ”のら行がいいんだよ。“べらんめえ”“この野郎”っていうのが。それを使えるのがまたいいんだよ」。それでデビュー曲が『潮来笠』に決まったというわけなんです。

大ヒットでスターの仲間入り

デビューは高校2年生のとき、7月5日です。ビクターの新人売り出し戦略で、デビュー前の6月に玉置宏さん司会の人気歌番組『ロッテ歌のアルバム』にゲスト出演することが決まりました。その日はビクターのスター歌手、フランク永井さんのショー。全国38局ネットの公開生放送で、会場は「フランクさーん」と興奮の声があがっているんだけど、無理やり登場させられることに。

僕は学生服で代々木のホールへ行き、赤いブレザーと白いズボンに着替えて舞台袖でスタンバイ。イントロが、♪ダダンダダダダンって鳴り、玉置さんが「出ました! 新人が歌うは『潮来笠』!」と紹介するや、客席からキャーッと割れんばかりの大歓声。「あれ? いったい何が起きているんだろう」と僕自身がまずビックリしちゃった。

僕のことも、僕が歌う曲も、誰も知らないはずなのに、内心戸惑いながらセンターマイクに進むと、会場のあちこちから紙テープが飛んでくる。あれは、おそらくビクターが考えた演出だったんでしょうね。で、ちょこんとお辞儀をしてマイクから離れると、フランク永井さんが「いやあ、若いなあ。君はいくつ?」って言うから、「17歳です。なったばっかりですけど」と返事すると、「そうかあ。若きゃいいっていうもんじゃねえよな。その赤いブレザー、ちょっと赤すぎない?」と軽くイジられましたね。

いまでこそアイドルがローティーンでデビューするのは当たり前ですが、当時の歌謡界で高校生が歌手デビューすることはなくて、もしかしたら僕が第1号かもしれません。だから色眼鏡で見られることもあったのでしょう。

しかし、そのステージから、一瞬にして僕はスターの仲間入りを果たしました。「あの少年は誰?」と話題が沸騰し、マスコミも「新人スター誕生!」とこぞって大騒ぎ。ビクターにも問い合わせが殺到し、全国のレコード店からオーダーが引きも切らなかったそうです。その反響の大きさを受けて、ビクターも猛烈にプッシュし、『潮来笠』は通算120万枚以上のセールスを出す、昭和35年(1960年)を代表するヒットになりました。

デビュー早々、ファンレターは1カ月に2万通以上。目の回るような忙しさになって、高校にも行けない。しかし、いまでは考えられませんが、担任教師も校長先生も「橋君、頑張っているな」と理解してくれて、無事卒業させてくれました(笑)。

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