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宝ホールディングス「挑戦と撤退のDNA」ニッポンの100年企業(11) 樽谷哲也

お酒の会社がなぜPCR検査用製品を売るようになったのか。/文・樽谷哲也(ノンフィクション作家)

チャレンジ精神をいつも持っていたからこそ

宝ホールディングス(宝HD)という現在の持ち株会社の商号より、宝酒造という社名が一般に馴染み深かろう。清酒「松竹梅」や宝焼酎「純」、「タカラcanチューハイ」などの誰しも知るアルコール飲料の主力商品を持っている。2018年に清酒国内出荷量において初めて首位となって以来、本みりんなども加え、和酒メーカーとして擢(ぬき)んでる。そして、酒類事業とは縁遠いと思える分野で、さらにいま一頭地を抜く。

やがて3年に至ろうとするこの間、私たちは世界的な感染症の拡大に、ひたすら怯えるように暮らしてきた。感染の有無を簡易かつ短時間で判別できるPCR検査の日本における先駆者が宝HDなのである。

「現在の新型コロナウイルスの問題に対して、その検査用製品を率先して世に送り出すことができて、お役に立てたのは確かでしょう。しかし、そのことをもって業績を評価できるかといえば、まだまだです」

京都大学で経済学を専攻し、1985(昭和60)年、地元の寳酒造(当時)に入社した第11代社長の木村睦(むつみ)は、柔らかな関西訛(なま)りで話す。

「私どもの会社の歴史を振り返るとすれば、いつの時代にあっても、新しいことにチャレンジしてきたというのは事実であるといえます。失敗してもええからとにかく何でもやれという乱暴な社風ではないと思います。それでも、チャレンジ精神をいつも持っていたからこそ、180年という年月を重ねられてきたのではないでしょうか」

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木村睦社長

戦後にさかのぼるだけでも、大衆に安価な焼酎が支持された物不足の混乱期、1億総中流と呼ばれる家庭が洋酒になだれを打っていく高度経済成長の時代、清酒の苦戦、バブル期のチューハイブームなど、アルコール飲料事業を取り巻く社会環境は、大きな変転を繰り返してきた。

宝HDの沿革
1842年 京都・伏見で酒造業を始める
1897年 「寶」の商標をみりんで登録
1910年 主力商品のみりんで東京に進出
1913年 「寶味淋」が宮内省御用達に
1916年 技師・大宮庫吉を招聘。自社製造の「寶焼酎」発売開始
1925年 寳酒造設立。初代社長に四方卯三郎が就任
1957年 「タカラビール」発売
1967年 ビール事業から撤退
1970年 石原裕次郎を清酒「松竹梅」の広告宣伝に起用
1977年 宝焼酎「純」発売
1979年 バイオ事業に本格参入
1982年 アメリカでの清酒事業開始
1984年 「タカラcanチューハイ」発売
1986年 ソフトドリンク事業へ参入
1988年 PCR法による遺伝子増幅システムの国内独占販売権を獲得
2002年 宝ホールディングスへと社名変更し、持株会社に。事業子会社として宝酒造、タカラバイオ発足
2004年 タカラバイオ上場
2006年 ソフトドリンク事業から撤退
2010年 ヨーロッパの日本食材卸事業へ本格参入
2017年 宝酒造インターナショナル設立

みりんが宮内省御用達に

江戸時代後期の1842(天保13)年、酒造りの盛んな京都・伏見の竹中町で、地元の四方(よも)家の4代目である卯之助が清酒180石(一升瓶約1万8000本)の製造権である酒造株の譲渡を受け、伏見の酒造家28軒の仲間入りを果たしたことが歴史の始まりである。冬に清酒を、夏に甘酒を生産した。先代の跡を5代目の卯之助が継いだが、家業は振るわず、一時休業に追い込まれる。

再興の兆しが見え始めたのは、1864(元治元)年ころのことと伝わる。成人した5代目の四方卯之助が焼酎やみりん、白酒の製造も開始し、生産高を上げていった。大阪や滋賀へも販路を拡大していき、1897(明治30)年、現在でもブランドロゴとして親しまれる「寶」印を、みりんにおいて商標登録する。

日露戦争後の好景気に沸く1905年に四方合名会社として組織化され、今日の宝酒造の前身となる。その後、現在の長岡京市の出身で、21歳で小学校の校長になるほど優秀であったことも見込まれ、養子入りした四方卯三郎(うさぶろう)(1867-1945)が社業を率いていく。

四方卯三郎は、みりんを主力商品に据え、東京へも販売網を広げていき、「寶味淋」は1913(大正2)年、宮内省御用達となる。

さらに、高品質で低価格の焼酎の開発に取り組む。現在の甲類焼酎の原型ともなる新式焼酎にも着目していた。愛媛・宇和島の日本酒精という醸造会社が開発した新式焼酎「日の本焼酎」は、品質と価格で他を寄せつけない人気を得ていると知り、交渉の末、四方合名が関東で独占販売する契約を結ぶ。東京で「寶」の商標で売り出した新式焼酎は、あっという間に支持を受け、生産が追いつかないほどの注文が殺到する。

四方卯三郎は、自社製造への思いを捨て難かったことから、日の本焼酎の開発者である日本酒精の技師兼工場長の大宮庫吉(くらきち)(1886-1972)に、頭を下げて協力を仰いだ。自ら事業を起こす目標を持っていた庫吉は、卯三郎の人柄に惹(ひ)かれ、独立開業の道を断って1916年、30歳のとき、四方合名に入社する。庫吉は、この年、すぐに最新鋭の蒸留機を導入した新工場を伏見に完成させ、自社製造の新式焼酎「寶焼酎」を世に送り出し、たちまちメジャー商品に育て上げていった。

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四方卯三郎

第一次大戦後の恐慌に、関東大震災による被害と、経営の屋台骨を揺るがしかねない事態を乗り越えながら、酒造会社などを合併・買収することで、生産拠点を広げていき、1925年、四方合名改め、寳酒造株式会社を創立する。特筆すべきは、経営難に陥っていた神戸・灘の酒造家を支援すべく1933(昭和8)年、松竹梅酒造という会社を設立したことである。これを機に売り出した「松竹梅」は、2リットル入りで1瓶5円と、当時の他メーカー品の5倍近い高値であったことがかえって話題を呼び、創業300年、500年という老舗蔵元の多い日本で、清酒としては後発ながら人気を集める。

戦後の1945年12月、復興の陣頭に立つべく、大宮庫吉が寳酒造の社長に就任する。焦土と化した貧しい敗戦国にあって、大衆はこぞって安価な焼酎を求め、1949年には、清酒を抜いて全酒類に占める販売シェアが28%と首位に立った。粗製乱造の焼酎は淘汰されてゆき、1950年代に入ると「寶」は焼酎のトップブランドにのし上がった。

やがて日本が高度経済成長期を迎えると、人びとの暮らしに質的な変化が現れる。ビールやウイスキーなど、家庭でも飲食店でも、それまでは手の届きにくかった洋酒が好まれるようになっていく。1955年をピークに、焼酎の販売量は落ち込む。

和酒メーカーとしての寳酒造は、新商品開発においても手をこまぬいていたのではない。大宮庫吉自ら技術者を伴って欧米を視察して研究を重ね、群馬に木崎麦酒工場を新設する。そして、1957年、念願の「タカラビール」の製造発売に踏み切る。木崎麦酒工場につづき、京都麦酒工場も新設して地元である関西圏の販路拡大を狙ったが、先行の大手メーカーによる寡占市場に割って入るのは困難を極めた。期待した売り上げに至らぬまま歳月が過ぎる。

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大宮庫吉

ビール事業から撤退

経営を再興すべく、大宮庫吉の娘婿で、寳酒造に入社していた大宮隆が1966年、52歳にして社長職を受け継ぐ。宝HDの社史においては大宮庫吉が「中興の祖」と位置づけられているが、彼は、むしろ、四方卯三郎と並ぶ事実上の共同創業者に近い存在であるといっていいのではないか。庫吉の後継となった大宮隆とその長男である大宮久こそ、より現実的な中興の祖といえる役割を果たしていくことになる。

大宮隆が社長に就任早々、負わなければならなかった責務は、ビール事業への見切りをつける英断を下すことであった。翌1967年、寳酒造はその決断に踏み切り、木崎、京都の両工場も先行大手メーカーに譲渡することになる。従業員は、最盛期の3143人から1300名も減った。現社長の木村睦が入社まもないころを回想する。

「昭和30年代に入った人たちが当時の上司でした。よく『自分はビール会社に入ったんやけどな』と笑う人がいましたね。ビール事業からの撤退で、人員整理に至ったのは1000人に満たなかったと聞いています。自ら会社を去って行く人もそれだけ多かったということでしょう。上司たちから私が聞かされて強く印象に残っているのは、会社を辞めざるを得なかった人たち、ビール事業に協力してくれた取引先や金融機関にたいへんお世話になったことは決して忘れてはならないということです」

大宮隆がビール事業からの撤退を決めた翌1968年の4月、長男の大宮久が寳酒造に入社している。のちに開発部に配属され、20代半ばながら、新規事業の育成のリーダー役を任される。100年にわたって培ってきた発酵技術のノウハウを活かして、当初、抗生物質などの開発を進めていた。いずれは医薬品分野へ進出することが構想としてあった。

大宮久は、のちの1993年から2012年までの19年間、社長を務め、以後は10年、会長の職にあった。79歳になったことし6月、名誉会長に就いている。

社長の木村は、幾度か大宮から若き日の開発中の苦労話を聞いた。

「ビール事業から撤退したばかりの会社に入ったのですから、なんとかして立て直さなければならないという強い思い入れがあったのだろうと思います。開発部のリーダーとして、海外の研究機関や製薬会社などを何カ国も訪問して、抗生物質の将来性を探索しつづけたようですが、独自の技術を確立するのは難しいと悩む時期が相当長かったそうです」

大宮久には、酒類事業を重んじる思いがある一方で、競争と浮き沈みの激しい業界への危機感もあった。

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大宮久名誉会長

石原裕次郎がCMに登場

看板商品である「松竹梅」のテレビコマーシャルには、石原裕次郎が晩年まで登場していたことが知られる。社長の大宮隆と深い交流があったと宝HD社内の記録にも残る。

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