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小説「観月 KANGETSU」#33 麻生幾

第33話
熊坂洋平(6)

★前回の話はこちら
※本連載は第33話です。最初から読む方はこちら。

 台所に戻った七海は、真っ先に居間のテーブルに視線を向けた。

――新聞がなおされている(片付けられている)……。

 だから? と七海は自問した。

 それはほんの些細なことかもしれない……。

 しかしそれでも七海は気になった。

 音を立てて食卓の前に座った七海に気づいた母が振り返った。

「食事、もうできちゃ」

 母が笑顔で言った。

 七海は強い違和感を抱いた。

 さっきまでの、いつもの母とはまったく違う、あの様子は何だったんだろうか……。

「それにしち、夜になってんご飯食べささんって、警察も、ちいと酷いわね」

 母が呆れた風に言った。

「まあ、それもそうだけど……」

 七海が口ごもった。

「どうかしたん? さっきも、涼さんのことでも、なんか言いたげやったけど?」

 コンロからだんご汁の鍋を運んできた母が怪訝な表情を向けた。

「涼の上司、正木って刑事。気に食わんのちゃ」

 七海がそう言って口を尖らした。

「気に食わん?」

「なんかなし横暴でさ!」

 七海が吐き捨てるように言った。

「でも、もう行かんでんいいんやろ?」

 七海の前の器を手にした母が、鍋からモチのような団子(だんご)や椎茸(しいたけ)を盛りつけた。

「呼ばれても、ぜったいに行かん」

 七海が言い切った。

「で、涼さんと何かあったん?」

 大きく息を吸い込んだ七海は、

「いただきまぁす」

 とだけ言って箸を手にした。

「あらら」

 母が笑った。

 食事をしながらも、七海はやはりずっとわだかまりを抱いたままだった。

 さっきまでは、私が警察に行ったことをあれだけ気にしていたのに、いざ食事が始まると、母はそのことを一切聞かなくなった。

 近所で起こったこと、聞いたことなど、たわいもない話をずっと続けている。

 それも笑顔をさえ見せているのだ。

 七海が最もわだかまりを持ったのは、母が無理に笑顔を作っている、そう感じたことだ。

 そして七海は、その言葉を母にぶつけてみたい、という衝動に駆られた。

――東京で殺された、真田和彦ちゅう人、お母さんの昔の知り合い?

 だが、七海はできなかった。

 母が、そのことを隠そうとしていることはもはや明らかだと悟ったからだ。

 隠そうとしているということは、自分の娘にも触れられたくないものがある、ということだ。

 そんな母の気持ちを無理矢理に壊したくない、と七海は思った。

 ただ、その時、思ってもみないことが頭の中に浮かんだ。

――そう言えば、母は、熊坂さんのことについていつも曖昧なことばかり言ってきた……。

 熊坂さんの奥さん、久美さんが亡くなった後、熊坂さんとの付き合いが始まった頃のことをしつこく聞いた時のことだ。

 母は曖昧な返事をした後でこう口にした。

 “熊坂さんのこと、よう知らんのちゃ。お父さんも、亡くなる前、熊坂さんのこと、いっぺんも話したことなかったし……”

 熊坂さんとのことも、七海は喉から出かかった。

 しかしそれにしても七海は結局、そうしようとは思わなかった。

 母とのこの時間を大事にしたかったからだ。

 重苦しい雰囲気を作りたくなかった。

 そんな思いに浸ったのには理由があった。

 最近、母がやけに痩せてきたことを七海は心配していたからだ。

 しかも、足のむくみが最近酷くなって……と口にすることが多くなってきたこともまた気になっていた。

(続く)
★第34話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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