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追想・安倍晋三内閣総理大臣 北村滋

「言葉を交わせるかもしれない」淡い期待を抱き、私は奈良の病院に向かった。/文・北村滋(前国家安全保障局長)

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北村氏

2022年7月8日「悲報」——奈良県橿原市

それは普段よりはむしろゆったりとした昼時であった。眼下に芝・虎ノ門の街並みを見下ろす赤坂1丁目、高層ビルの最上階、船橋洋一氏との昼食を待つ最中、その知らせは前触れもなく飛び込んできた。

「NHK速報 安倍元首相 奈良市で演説中に倒れる 出血している模様 銃声のような音」(11時44分)

目を覆いたくなるような不吉な知らせだった。さらに、「背後から散弾銃のようなもので撃たれた模様」「心臓マッサージ中 ヘリで搬送の予定」「銃器は押収済み」「被疑者を確保」といった断片的ではあるが、衝撃的な情報が次々ともたらされる。

正午前に船橋氏が現れると、着席する間もなくこの事態を告げた。平素は、冷静で論理的な彼には珍しく、「国家にこれ程大きな損失はない。日本は何時いつからこんな恥ずかしい国になってしまったんだ」と一言。怒気を含んだ声だった。

12時37分、盟友、ロバート・オブライエン前米国国家安全保障担当大統領補佐官より電話が入る。心のこもった見舞いの発言の後、この事態をトランプ前大統領に直接面会して伝えると話していた。「安倍総理の回復を心から祈っている。彼は、日本のみならず全インド太平洋地域において屹立(towering)した指導者であり、米国の真の友人だ。神のご加護が彼の回復をもたらしますように」とメッセージにあった。

人づての情報に右往左往し、遠くで為す術を知らない自分が正直言ってもどかしかった。安倍晋三元内閣総理大臣(「安倍総理」という)の危急存亡の事態に1メートルでも、1センチでも物理的に近づくことが長年お仕えした自らの務めだと悟った。搬送先の情報を求めたが、なかなか要領をえない。ようやく橿原かしはら市所在の奈良県立医科大学附属病院であることが判明する。失礼ではあったが、食事もそこそこに「これから病院に行って来ます」と船橋氏に告げた。「君なら当然そうすべきだ」と背中を押してくれた。

品川駅に向かうタクシーの中で安倍総理の安否を気遣うプロデューサーの残間里江子氏からの電話。「これから奈良に向かう」「あなたならそうしなきゃね」。船橋氏と全く同じ反応だった。

13時17分発の「のぞみ35号」に乗り込むと、気持ちが少し落ち着いた。「この『のぞみ』が安倍総理の強力な磁場に引き寄せられている」。そんな錯覚のなせる業だった。「ひょっとしたら総理と言葉を交わすことができるかもしれない」などと淡い期待を抱いたこともあったが、そんな期待は現地到着後に裏切られることになる。新大阪駅から橿原まで車でどの位かかるか見当もつかなかったが、行程は順調だった。車中、今井尚哉内閣官房参与から連絡が入る。橿原市に向かっていると告げると、昭恵夫人と菅義偉前総理もまた此方に向かっていることを教えてくれた。彼は、これから生ずるであろう安倍事務所としての仕事を中核となって引き受ける覚悟でいた。奈良の病院における事務は、私に委せたということなのであろう。官邸で勤務していたときから、何時もそうだった。長く話し合わなくとも事態に応じて2人が安倍総理のためにそれぞれ何をすべきかは自ずと分かっていた。それは、今回も同様だ。

16時30分過ぎに橿原市の病院に着くと、既に清和政策研究会(安倍派)から派遣された塩谷立会長代理、西村康稔事務総長は到着して昭恵夫人の到着を迎える態勢にあった。私も、その列に加わり、夫人が到着すると、安倍総理との対面。そして17時03分、奈良県立医科大学附属病院の総力を挙げた、医師らの懸命の施術にも関わらず死亡が確認された。安倍総理は、さぞかし無念ではあったであろうが、予想以上に安らかなお顔で、それが唯一の救いだった。

GDP、財政規模、防衛力、こうした「有形資産」では換算できない国の価値を21世紀を通じて安倍総理は政治家として積み上げてこられた。その国家が蓄積した莫大な無形資産の多くが卑劣な兇弾とともに消滅した瞬間でもあった。

1989年4月26日「出会い」——警視庁本富士警察署管内

1989年4月18日朝、普段、物静かで、温厚な及川勝彦警備課長が幾分緊張した面持ちで、署長室に入ってきた。

「安倍晋太郎自由民主党幹事長が管内の順天堂医院に入院されることになりました」

「お加減が優れないのかな。大物幹事長だから、警察としてもそれに応じた対策を講じておく必要があるね。あそこの病院は警備上の措置にも慣れているから比較的安心だけど。ただ、現在の政局や『安竹』の関係を考えると総理警護が増えるかもしれないな。また、忙しくなるね」。その場は、それだけだった。

1988年6月の朝日新聞横浜支局発の記事に端を発したリクルートによる未公開株譲渡・献金問題は、燎原の火のごとく政財界を席巻し、当時の竹下内閣を大きく揺るがしていた。緊迫した政局下での総理警護。それを思うと、自らが緊張していくのが分かった。

1989年4月26日朝、定例の報告を受けた後、警察署沿いの歩道を背に、署長室で執務をしていた時のことだ。

「総理警護入りました。程なく官邸を出発するそうです」。とるものもとりあえず、警察署長の普段着の制服を私服に着替え、受令機のイヤホンを耳に突っ込みながら、順天堂医院の現場へ。既に、院内の配置ポイントは決定済み。管理者対策終了。VIP用動線も確定。その余の対策は現在実施中の警備諸対策に包含。頭の中で警備対策の骨子を復唱する。

遠目には、あたかも黒い鳥の一群れが如き総理車列。神田川を越え、その群影を現すと瞬く間に、医院玄関に進入してくる。磨きをかけた黒の車体が陽光を照り返している。屈強な男たちが竹下登総理を取り囲むように足早でエレベーターへ。遅れることのなきよう、言葉を交わすこともなくこれに続いた。

順天堂医院、白の回廊を歩きながら、竹下総理を背後から見つめていた。青白い肌から透ける血管、映像で見るより痩せた後ろ姿。竹下総理が安倍幹事長の病室に消え、暫しの静寂の時が流れる。及川課長が後ろから袖を引いて、耳元で囁いた。

「安倍幹事長の秘書で、御子息がお見えです。奥様も御一緒です」

当時代議士ですらなかった安倍総理と昭恵夫人との最初の出会いであった。

「順天堂医院の警備を担当しております、本富士警察署長の北村です。何か不都合等ありましたら遠慮なくお申し付け下さい」

「いろいろとお世話になります」。政界のサラブレッドであるにも関わらず深々と頭を下げた礼儀正しさが深く印象に残っている。そして、テレビ等でその後、安倍総理を見る度に、また、今でも思い出す言葉が、正にその時浮かんだ。「この人は、政治家として自分とは全く異なる人生を歩むのだろう」。しかし、後年8年半以上という憲政史上最長の在任期間、内閣総理大臣として、自分自身がお仕えすることになるとは予想だにしていなかった。

駆け出しの若き警察署長は、この日が人生にとってどれほどの意義を持つこととなるかを、未だ知らず、一仕事終えたという安堵を胸に、総理車両の明滅する青いテールランプを眺めていた。

2007年9月26日「失意」——皇居

2007年9月25日、第1次安倍内閣は総辞職した。安倍総理は、潰瘍性大腸炎を悪化させ、同月12日に辞意を表明し、翌13日から慶應義塾大学病院に入院されていた。内閣総理大臣秘書官(以下「総理秘書官」という)として、危機管理を担当していた私は慶應義塾大学病院との連絡調整を担当することとなり、この2週間、病院と官邸とを往復する日々が続いていた。安倍総理の病室付近の空き室を拠点にしていた。昭恵夫人をお見かけしても、涙に暮れられていることが多く、あまり慰めの言葉をかけることもできなかった。

前日の辞表取りまとめの閣議を終え、26日は8時30分より福田康夫内閣総理大臣の親任式である。6時45分、モーニング姿で慶應義塾大学病院に安倍総理を出迎えに伺った。警察出身の総理秘書官は宮内庁を担当し、平素は内奏等の関係で宮内庁長官と連絡をとり、宮中行事には必ず同行した。約2週間の入院生活で、安倍総理の病状は最悪の状況は脱しつつあったが、めっきり体重が減り、体力も消耗されているように見えた。

親任式とは、天皇陛下が内閣総理大臣を任命する儀式である。皇居新宮殿「松の間」において執り行われる。衆参両院議長が侍立し、天皇陛下から任命する旨のお言葉があった後、前内閣総理大臣から官記(任命書)が伝達される。安倍総理としては、内閣総理大臣として最後の仕事であった。

平素の認証式等で総理秘書官は1階の控え室で待機し、儀式を終えるのを待つのが慣例である。しかし、この日は違った。皇居新宮殿に到着すると、警察庁から出向している宮内庁坪田眞明総務課長に「安倍総理の健康状態を考えると、万が一を想定して、式場直近で待機したい」と申し入れ、2階の「松の間」付近で待機することが許可された。この申し出は本意でもあったが、実はそれよりもむしろ、安倍総理の内閣総理大臣として最後の仕事を見届けたいという気持ちが強かった。親任式は、厳かな雰囲気のうち、無事に終了した。

戦後最年少の宰相として世間の注目を集め、1年で辞任を余儀なくされた無念。我々の心中とは裏腹な雲一つない秋晴れ。9時過ぎ親任式を終えた帰りの車中、安倍総理と私を乗せたセンチュリーは皇居の乾門いぬいもんを出ると、代官町から首都高に入り、滑るように速度を上げる。総理秘書官在任1年、政治に口を差し挟むようなことは一切無かったが、この時しかお伝えすることはできないと考え、思いの丈を申し述べた。

「1946年フランスでドゴールがレジスタンスで共闘した共産党等との連立政権を離脱し、大衆運動に身を投じた後、1958年に第5共和制を打ち立てるまで、12年余の歳月を要しました。ミッテラン社会党政権は、彼の独特な政治的才覚により、かろうじて2期14年間続きましたが、1981年社会党・共産党共闘で多数派を形成した同政権が総選挙で敗北し、最初にドゴール派等の保守とのコアビタシオンに移行したのは、革新政権成立5年後の1986年のことです。世論・思潮の変化には、勿論一定の時間は必要ですが、それは必ず訪れるのが世のならいです。真に国民と国家の利益を希求する政治勢力が澎湃としてわき起こり、再び政権を奪取されることを強く願っております」

安倍総理は、どのような受け止めをされたかは定かでないが、黙って聞いておられた。そして、この失意のどん底から5年余、国際政治学者スタンレイ・ホフマンが「政治の芸術家」と呼んだドゴールの半分以下の期間で政権への復帰を果たすのである。

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ドゴール像(フランス・パリ)

2008年8月6日「再起」——ANAインターコンチネンタルホテル東京

2008年8月6日、第1次安倍政権時代、側近で最年長であった長谷川榮一中小企業庁長官(当時)から連絡があった。米国にいた外務省の林肇氏(在英国日本国特命全権大使)を除いて、田中一穂氏(日本政策金融公庫代表取締役総裁)、今井尚哉氏、そして私、事務の前総理秘書官がANAインターコンチネンタルホテル東京の一室に集まった。

安倍総理は、同年の文藝春秋2月号で独占手記「わが告白 総理辞任の真相」を公開し、内閣総辞職に至る顛末を明らかにしていた。また、4月11日には、その後マスコミ等でも有名になる「高尾山登山」を行い、徐々にその姿を世間に現し始めていた。この日の主たる議題は、安倍総理がどのような形で政治活動を再開するかということであった。個人的には時期尚早ではないかとも考えたが、A4三枚の資料を用意した。役所の紙ではないので、比較的自由に書いている。

そこに記載した政治理念の項目では、(1)「日本人が共有する価値の護持者」として、家族、国土(領域・自然・環境)、文化、伝統(歴史、皇統)を守るべきこと、(2)「保守主義の体現者」として、ⅰ理性より感性、ⅱ世界主義(universalism)より国民主義(nationalism)、ⅲ物質より精神、ⅳ結果平等より機会平等、ⅴ思弁より行動を重んずべきこと、(3)「保守思潮の主導者」として、保守論客との交流、保守論壇への発信、主義主張を同じくする者による組織の形成(結社は利益共同体から思想共同体へ)を進めるべきこと、(4)「保守大衆団体の形成」として現場・草の根の目線による運動を展開すべきことを提案した。ドゴールが在野にあったころの政治姿勢に影響を受けた提案であることが看取できる。

政策的課題の項目では、(1)安全保障、(2)インテリジェンス、(3)地方自治、(4)司法・法務、(5)治安・警察、(6)災害・危機管理等の総理秘書官時代の分掌について比較的詳細な提言を記載した。

結局、この日は、これといった結論も出ずに終わったが、安倍総理が政治活動を再開する気配が感じられて、とても嬉しかった。程なく、長谷川氏から「我々が提出した書類に総理はつぶさに目を通された」との連絡が入った。

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