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世界遺産三内丸山遺跡と縄文人の世界 ~戦を好まず、自然と共存する縄文人に学べ~ 三浦佑之×岡田康博

戦を好まず、自然と共存する。魅力的な縄文人に学べ。/文・三浦佑之(千葉大学名誉教授)、岡田康博(青森県世界文化遺産登録専門監)

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三浦氏(左)と岡田氏(右)

縄文時代のイメージが変わる

三浦 7月27日に、三内丸山遺跡(青森市)など17遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」が正式に世界文化遺産に登録されました。紀元前の遺跡群としては国内初となります。岡田さんは、青森県の担当職員として遺跡の発掘調査から今回の登録に至るまで、実に30年近くにわたり中心的な役割を担って来られて、「ミスター三内丸山」とも呼ばれているそうですね。

岡田 いやいや、その表現は大げさですが(苦笑)。1992年に発掘が始まった当初は、まさか世界遺産になるとは夢にも思わず、今も信じられない気がしています。

県営野球場の建設予定地を事前調査したところ、夥しい数の遺構や出土品が見つかったのがそもそもの始まりでした。その後の調査で、今から5900~4200年前の縄文時代に、広大な集落があったことがわかったんです。当時で竪穴建物が580棟、掘立柱(ほったてばしら)建物が100棟と数々の遺構が見つかり、さらに縄文土器、石器、土偶に至っては段ボール箱にして4万個分も出土しました。

三浦 今では、ミュージアムや公園も整備され、毎年30万もの人が訪れるそうですね。ただ、その一方で世界遺産登録までの道のりは長かったとも聞きました。

岡田 そうですね。元々は2006年に文化庁から世界遺産候補の募集があったので、県として三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡などの縄文遺跡群を推薦すべく手を挙げたんです。

ただ、文化庁の審議会では、「縄文文化を推すのはいいとしても、国内には他にも縄文遺跡があるのに、なぜこの地域だけなのか」と指摘がありました。そこで、地域文化圏として共通性を持つ北海道南部から北東北の遺跡群まで範囲を広げて、改めて世界遺産を目指してきたんです。

三浦 今回、世界遺産に登録されたことで長年の苦労が報われて、安心されたところもあるのではないですか。

岡田 正直なところ、私は世界遺産が文化遺産の頂点だとは思ってはいないんです。「世界遺産」という独自の考え方に基づく、自然、景観、建築物、遺跡などを保護するための一種の仕組みであって、その基準を満たすものとして認められたのだと受け止めています。

ただ、これを機会に縄文時代のイメージが変わるといいなと思っています。多くの方は、縄文時代と聞くと未開、未発達というイメージをお持ちだと思います。でも、三内丸山の発見は、そんな縄文時代のイメージをくつがえすものでした。縄文時代にも大きな集落があり、多くの人が共同生活を送り、海を越えて交流していた。狩猟採集時代にもたしかな文化があったこともよくわかる。その意味で重要な発見だったと思います。

20160708BN00102 三内丸山遺跡

三内丸山遺跡

巨大な竪穴建物の役割

三浦 私は『古事記』を研究して来ましたが、この日本最古の歴史書が編纂されたのは712年。今から1300年ほど前で、縄文時代に比べると最近のことです。当時は大和王権の時代で、東北地方に関しては、大和の支配が及んでいなかったためか、ほとんど記述はありません。強いて挙げるなら福島県の「相津(会津)」という地名が出てくるくらいで、青森県のことは一切書かれていない。要するに、古事記の時代は東北の入り口までしか認識されていなかったわけですね。

ただ、時代と空間を超えてつながるものはあると思っています。古事記に描かれている神々の世界は、実際に古代の日本で起きたことが反映されている。記述されているのは弥生時代の後半からですが、その前の時代を想像させる箇所も出てきますから、昔から縄文時代には大いに関心を持ってきました。

そこでまずは、三内丸山での縄文人の暮らしについて、いくつか気になっていたことからお伺いしたいと思います。

岡田 是非、お願いします。

三浦 私が初めて三内丸山遺跡を訪れたのは2000年のことでした。まず一番驚いたのは、集落の中心に位置する、あの巨大な竪穴建物。長さ32メートル、幅9.8メートル、建坪にして80坪もあり、「ロングハウス」とも呼ばれていますね。茅葺き屋根に覆われた家屋の中に入ると、ものすごく広い。これほど大きな建物が本当にあったのか、信じられない思いでした。あの中ではいったい何が行われていたと考えられているのでしょうか。

岡田 実は、あの中を調査しても、特別変わったものが出土するわけではないんです。だから宗教施設とかそういうものではなさそうです。ただ、集落の中心にあり何度も建て替えられた痕跡があるので、当時の社会では、大きな役割を担っていたことは推測できます。公共施設や集会所だったのではないでしょうか。三内丸山では、あの建物だけが特別で、あとは4~5人単位で住む、小さい竪穴建物が点在していたようです。短期滞在用のもっと小さな建物跡も見つかっています。

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ロングハウス

狩猟よりも採集が中心

三浦 なるほど、三内丸山が周辺集落の中心になっていたとも考えられそうですね。現代の日本でいう地方から東京に一極集中することと似ていますが、三内丸山に住むことで、何か生活上の便利な点があったということでしょうか。

岡田 そうですね。一つは食料です。三内丸山の近くには陸奥湾があるので、アジ、サバ、イワシなどの魚介類が豊富に獲れました。いちばん多く出土しているのはブリの骨で、これは回遊魚なので網を使っての漁でしょうから、サケと同じく共同作業で獲っていたと思います。

それと植物の栽培。元々、三内丸山はブナやミズナラの森でしたが、人が住み始めてからクリ林に切り替わったことがわかっています。クリは食料ですが、他にもヒョウタン、ゴボウ、アサなどの栽培植物も確認されています。

またニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどを発酵させた酒も作られていたようです。それらの種子が大量に出土していますし、発酵物に集まるショウジョウバエのサナギも一緒に出てきています。

三浦 動物の狩猟も行われていたのでしょうか。

岡田 縄文時代というと狩猟のイメージが強くありますけれど、狩猟の成功率は高くなく、基本的には縄文人の食を支えていたのは海や森での採集だったと考えられています。

三浦 アフリカの狩猟民の記録を読んでいても、男性はもっぱら狩猟に励んでいますが、ほとんど獲れていないですね。主に人々を食べさせていたのは、植物採集をする女性だということが分かります。

岡田 春と秋には豊かな森の恵みがあり、夏になると魚介を獲る。縄文人は季節の変化に応じて食生活を変えていく、いわゆる「縄文カレンダー」の生活を早い段階で取り入れていたはずです。

三浦 1年の生活サイクルがほぼ決まっていたわけですね。三内丸山は、定住社会が1700年も続いた点でこれまでの定説を覆したとも言われていますが、今のお話を伺うと恵まれた環境だったことがよくわかります。

岡田 もう一つ、三内丸山が周辺各地の集落の中心だったと考えられる理由は、北海道や北東北の遺跡の中で突出して多くの土偶が発見されていることです。大半は板状(ばんじょう)土偶というタイプで、人の形を十字型に表現し、顔の部分に目や口の窪みがあります。その多くが平べったくて手のひらに乗るサイズです。土偶は祭祀や儀礼に関係するものですから、三内丸山は宗教的な中心地であったと考えられています。

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板状土偶

縄文人の巨木信仰

三浦 そうすると、漁労に秀でた人や土偶づくりに秀でた人、さらには宗教的なまとまりを統べる指導者など、三内丸山には様々な職能を持った人がいたと推測できそうですね。裏を返せば、当時の社会は、すでに階層化が進んでいたと言えるのではないですか。

岡田 ええ。すでに階層社会だったはずです。その理由の一つとして、人口とお墓の数が合わない。つまりお墓に入れた人と、入れなかった人がいたらしいです。

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