辻田真佐憲

評論家と専門家の適切な関係性を回復しなければならない 辻田真佐憲「〈視聴覚〉のニッポン考」

 人は死ぬ。せいぜい100歳で死ぬ。われわれはそれゆえ、いくら熱心に学習しても、多くのことについて中途半端で、よくわからないまま消えていく。にもかかわらず、選挙の投票ひとつ取ってもわかるように、われわれはまた、しばしば世界や社会という大きなものについて考え、行動し、発言しなければならない。

 そのときに、頼りになるもののひとつが《評論家》の仕事である。評論家は、専門的な知見を参照しながら、おおまかな見取り図や全体像を提供してくれる。日々の生活や仕事に忙殺されるひとびとも、それを手がかりにすれば、世界や社会の動きをざっくり見通すことができる。

 しかるに今日、評論家の仕事は不遇といわざるをえない。ときに《専門家》によって間違い探しをされ、さらに進んで、その存在、人格まで否定されることさえある。

 なるほど、評論家の仕事には粗があろう。しかし、それは広い分野を取り扱っているのだから、ある程度やむをえないのではないか。

 もちろん、「専門家は間違いを指摘するな」といっているのではない。良識と敬意がともなえば、それは大いにけっこうだ。ここでいいたいのは、われわれの社会で一定の役割を担っている評論家の仕事や存在を全否定したあとに、一体なにがやってくるのかを考えてもらいたいということである。

 われわれの生に限りがある以上、世界や社会の見取り図や全体像をつかもうとする欲求はけっしてなくならない。

 そもそも「素人は黙れ」「素人に書かせるな」と放言する専門家が、現代日本の言論界や出版界などについて専門的な知見を持っていることは珍しい。すなわち、その専門家は多くの場合「素人は黙れ」云々という戒律をみずから犯してしまっている。

 ことほどさように、ひとは幅広いことに関心を持つし、発言しようとする。その抑制はかえって不健全な権威主義の跋扈を招きかねない。

 ひとびとが身の丈を弁え、専門家のみが専門的な発言を行い、社会がよくなっていく。そんなユートピアはおそらく永遠にやってこないだろう。評論家覆滅のあとにやってくるのは、むしろより劣悪な似非評論家が君臨するディストピアである。

 善良な評論家Aは、専門家の批判にも耳を傾け、発言の内容を改善しようとする。それゆえに、専門家からの攻撃には弱い。だが、その排斥のあとにやってくる劣悪な評論家Bは、もはや専門家の意見になど耳をまったく貸さない。それどころか、商売の邪魔といわんばかりに、「学会は左翼に支配されている」などと叫んだりする。その結果、提供される全体像は恐ろしく低レベルなものになっていく。

 この図式をあえて近代史に当てはめれば、専門家とは実証史家を指し、評論家Bとは歴史修正主義者を指し、評論家Aとはノンフィクション作家などを指すことになろう。実証史家の一部が、歴史修正主義者よりもノンフィクション作家への批判に汲々としていることは遺憾といわざるをえない。

 もっと日常的な例として、寿司屋を出してもいいかもしれない。

 いっぽうに、ネタは新鮮だけれども、愛想が悪く、建物もボロボロの個人店があり、もういっぽうに、店はきれいで、サービスも丁寧で、とうとうと物語を語ってくれるけれども、ネタが半分腐っているチェーン店があるとする。

 昨今、後者があちこちで食中毒事件を起こしているので、前者の評判が高まりつつある。とはいえ、前者はそもそもキャパシティが少なく、いささか客層を選ぶところがある。前者だけでは、後者を退治できない。

 ここで本当に必要なのは、そこそこネタが新鮮で、そこそこ物語も充実している、大衆店のごとき存在なのではないか。にもかかわらず、このような店は、いまや両側から挟撃されて閉鎖に追い込まれつつある。

 このような「中間」の擁護は、日和見主義、どっちもどっち論とのそしりを受けやすい。とはいえ、人間が中途半端な存在であらざるをえない以上、中途半端との適切な付き合い方を模索するべきではないだろうか。

 いいかえれば、今日必要なのは、評論家の否定ではなくその養成であり、その提供する見取り図(物語といいかえてもよい)の排除ではなく向上ではないだろうか。

 そのためには、評論家と専門家の適切な関係性を回復しなければならない。それは先走っていえば、ジャーナリズムとアカデミズム、あるいはフィクションとノンフィクションの関係改善であり、相互の敬意と信頼の深化であるはずである。

 またここで述べた評論家と専門家は、かならずしも別々の人格のみをいわない。ひとりの人間のなかにも、評論家的な要素と専門家的な要素が存在する。以上は、その協調の話でもある。

 このたび「〈視聴覚〉のニッポン考」と題して、連載をはじめることになった。思えば雑誌は、評論家と専門家を邂逅させ、よりよい全体像を練り上げさせる、公共的な場所のひとつだったはずだ。だからこそ、本連載では、以上のような協調を意識しながら、現代日本のさまざまな事象を取り上げていきたいと考えている。

 読者諸氏のご愛読を期待する次第である。

(連載第1回)
★第2回を読む。

■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。


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