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【6-社会】コロナ「ファクターX」のまぼろし 日本は「ふつうの国」だった|橘玲

文・橘玲(作家)

問うべきは日本の死亡率が低いことではない

ノーベル賞受賞者の山中伸弥氏(京都大学iPS細胞研究所所長)が、日本人には新型コロナウイルスに感染しにくい、あるいは感染しても死亡率が低い「ファクターX」があるのではないかと述べたことが話題になった。

ファクターXとしては、BCGワクチンの接種率、交差免疫(過去に旧型のコロナウイルスに感染した経験)、ウイルスの型のちがいなどさまざまな要因が注目されては消えていったが、ここでは各国別の死亡率(100万人あたりの死亡者数)の推移からこの問題を考えてみよう。

P039_論点6_欧州日本死亡者数

図は2月から8月にかけての欧州主要国(イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン)と日本の100万人あたりの死亡者数を比較したものだ。医療崩壊によって大量の死者を出したイタリア、スペインだけでなく、イギリスやフランスの死亡率も3月中旬には高水準になり、次々とロックダウンに追い込まれた。

4月中旬にはニューヨークでも爆発的な感染拡大が起きており、死亡率は最悪期のイタリアやスペインの4倍以上になって、埋葬を待つ棺が町なかの仮安置所に積みあがった。それに対して日本の死亡率はその300分の1以下だったのだから、そこになんらかの理由があると推測するのは自然だ。

だが図を見れば明らかなように、その後、欧州主要国の死亡率は急速に下がり、一時的にではあれドイツ、イタリア、スペインは日本とほぼ同じ水準になっている。過去のワクチン接種率などでこうした急激な変化が起きるとは考えにくく、ファクターXの根拠はあやしくなった。

こうした事情はアメリカも同じで、ロックダウンによってニューヨークの感染が収まってきた6月初旬から、入れ替わるようにフロリダとテキサスで感染者が急増し、7月にはニューヨークの最悪期の人数を超えた。しかしその時点でも死者数はほとんど増えず、両州とも4月中旬のニューヨークの10分の1程度の水準にとどまっていた。

これが深刻な政治対立を引き起こしたのは、ニューヨークが民主党の牙城で感染抑制を最優先したのに対し、フロリダとテキサスでは共和党知事がトランプに歩調を合わせて経済活動再開を急いだからだ。民主党(リベラル)は感染を拡大させたとトランプを批判し、共和党(保守派)はいたずらに死者を増やしたとニューヨーク州知事の「失政」を糾弾した。

欧州各国は夏のバカンスシーズンに向けてロックダウンを解除したが、スペイン、フランス、イギリスでは7月から9月にかけて感染者が急増した。それでも死者数があまり増えなかったため、経済への影響を考えて再規制を躊躇し、感染拡大の第2波を招いた(10月末にはスペイン全土で夜間外出禁止、フランスやイタリアも外出規制を強化し映画館、スポーツジムなどを閉鎖)。

こうした経緯を見れば、問うべきは日本の死亡率が低いことではなく、「欧米諸国でなぜ急激に死亡率が下がったのか」だろう。

この疑問については、「PCR検査数が増えて潜在的な感染者が見つかった」「医療機関で治療情報が共有された」から「ウイルスが変異して弱毒化した」までさまざまな説明があり、専門家でも意見の一致を見ていない。とはいえ、日本が8月には「ふつうの国」になっていたことは間違いない

科学的仮説がイデオロギーに変質

それにもかかわらず日本では、ファクターXについての議論が延々と続いた。この奇妙な現象は、当初はたんなる科学的な仮説であったものが、「日本スゴイ」のイデオロギーに変質したと考えれば理解できる。「日本人には新型コロナの耐性があるらしい」「日本は特別であってほしい」という願望が「ファクターX」に込められるようになった結果、ネット上では、その存在を否定すると「反日」と糾弾される奇妙奇天烈な事態になった。

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