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佐久間文子さんの「今月の必読書」…『歴史家と少女殺人事件 レティシアの物語』

加害者ではなく被害者の人生の物語

歴史学者は過去しか扱わない。

本書は、そんな常識を打ち破る。まだ輪郭が定まらず揺れている現在のできごとを徹底調査し、歴史的な文脈の中に置き直し、未来において参照可能なものにする。歴史の可能性を拡げる、刺激的な仕事だ。

原題は「レティシア」。2011年1月、フランスの地方都市ポルニックで殺された少女の名前である。フランスではその名前だけでイメージが喚起される著名な事件だとしても、「三面記事」で扱う事件である。なぜ、気鋭の歴史学者が、ひとりのウエイトレスが殺された事件について本を書くのか。邦題は、素朴な疑問を抱かせ、読者を誘う。

レティシア・ペレは、1992年にナントで二卵性双生児の妹として生まれた。母親を強姦した容疑で父親は刑務所に入り、母親は鬱病を発症して入院する。養育者のいない双子の姉妹は、もっぱら施設や里親のもとで成長した。

事件は最初、少女の失踪として報じられた。その晩、レティシアと酒場にいるのが目撃されていたトニー・メイヨンが誘拐の容疑者として逮捕されるが、自供は得られず、レティシアの行方もつかめない。

懸命の捜査で、レティシアと思われる遺体の一部が、失踪現場から離れた池で見つかるが、ここまではまだ、ありふれた事件のひとつだ。だが事件は思わぬ急展開を見せる。メイヨンが累犯の犯罪者だったことから、「しばしば三面記事事件を口実にして、刑法の厳格化を要求」してきたサルコジ大統領が介入、司法関係者のストライキにまで発展する。

さらに、被害者を代弁してメイヨンを非難していた里親のパトロンが、レティシアの姉ジェシカに性的暴行をしていたとして告発され、逮捕される。レティシア事件は、国民的悲劇へと拡大、変貌していった。

著者の調査は発生から3年後に始まっている。ジェシカやパトロン夫人、レティシアの父親や友人たち、捜査関係者や弁護士、現場を取材したジャーナリストにも会って話を聞き、レティシアのフェイスブックや携帯のショートメッセージも読み込んで、事件を再構成していく。

失踪現場から始まり、最後にまた事件の夜に戻っていく。調査の過程を明らかにしながら徐々に真実に迫る構成は、上質のミステリを読むようにゾクゾクさせられる。トルーマン・カポーティ『冷血』やノーマン・メイラー『死刑執行人の歌』を想わせるが、著者自身も言うように、それらと違うのは、本書が加害者ではなく被害者の人生の物語として書かれている点だ。

事件の被害者として初めて何千万もの人間にその名を知られることになったレティシアは、それまでどのように生きてきたのか。『私にはいなかった祖父母の歴史』で、ユダヤ人収容所で命を落とした祖父母の人生をたどった著者は、同じ熱意で、自分の言葉をあまり持たない内気な少女の短い一生を描く。

「子どもたちの傷つきやすさと、女性が受けている暴力」の2つを体現する存在であったレティシアは、青春を謳歌する18歳でもあった。双子の姉に保護され、積極的に文句を言わなかった彼女は、性暴力に否、と言ったことで、無残に殺され、切り刻まれ、池に沈められた。

発見された遺体に対して検事正が使った言葉や、テレビの前で判事が流した涙。「三面記事」からこぼれ落ちる細部を歴史の断片としてすくいあげる姿勢に、死者への哀悼と敬意を感じる。

書評委員(五十音順)
池上彰(ジャーナリスト)
角田光代(作家)
角幡唯介(探検家・作家)
梯久美子(ノンフィクション作家)
片山杜秀(慶應義塾大学教授)
佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)
中島岳志(東京工業大学教授)
原田マハ(作家)
平松洋子(エッセイスト)
古市憲寿(社会学者)
本郷恵子(東京大学史料編纂所教授)

4名の方が交代で執筆します。

(2020年10月号)

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