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保阪正康 日本の地下水脈18  「議会政治の誕生と死」
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保阪正康 日本の地下水脈18  「議会政治の誕生と死」

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議会への無理解が「政治的無関心」の源流にある。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

「どうせ選挙に行ったって」

10月31日に投開票がおこなわれた第49回衆議院選挙は、戦後3番目に低い投票率(55.93%)となった。選挙前の4年間、公文書の改ざんや政治とカネの問題など、スキャンダルが相次いだが、それでもなお与党が勝利したのである。

事前の予想とは逆に、最大野党の立憲民主党は無残に敗北した。敗因は、政治の門外漢である筆者にも充分想像がつく。この政党が何をやりたいのか、自公連立政権とはどう違うのか、何も見えてこないのである。さらに、代表をはじめとする党幹部たちは小利口な秀才タイプで占められており、議会で与党を追い込んでいく力強さが決定的に欠けていた。

また、与野党に共通する現象として、政治家という職業が一種の「家業」と化していることも注目される。名のある政治家のほとんどが2世、3世であるか、官僚出身者である。こうした状況を見ていると、「どうせ選挙に行ったって、何も変わらない」と思ってしまう有権者が多いことは、容易に想像できる。

そうした政治的無関心の末に、壮大な「ばら撒き」がおこなわれようとしている。10万円給付や、「コロナ対策」を名目とした法外な補正予算案には違和感を持つ国民が多くいるが、国会での議論もなく、なし崩し的に進められている。

このような政治風景の源流には何があるのか? 日本における議会政治の歴史を振り返ってみたい。

藩閥政府の「超然主義」

本連載前号で見たように、日本型デモクラシーのあり方を示した理念として、「五箇条の御誓文」がある。明治元(1868)年に明治天皇が新政府の基本方針として示した御誓文は第1条に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と謳っている。議論によって国の方針を決めるべしとしたこの理念は、のちの思想家たちに大きな影響を与えた。とりわけ明治初期に勃興した自由民権運動はその影響を受けている。

明治7年、板垣退助は「民撰議院設立の建白書」を政府に提出し、選挙によって選ばれた政治家による国政の実現を訴えた。明治13年には自由民権運動の各地の代表が国会期成同盟を結成し、署名を集めて政府に対して国会開設を要求した。

翌明治14年、国会開設の勅諭が発せられ、明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、国会が衆議院と貴族院の二院からなることが決まった。同時に、衆議院議員を選出するための法律である衆議院議員選挙法が公布された。

さらに翌明治23年、帝国議会が開設された。明治維新以来、自由民権運動が目指してきた悲願がようやく実現したのである。

しかし、薩摩藩や長州藩出身の政府高官たちは、こうした動きを警戒していた。議会開設を前に、各地方で自由民権派の流れを汲む政治結社が続々と結成されたが、議会が開設されればこれらの政党が国政に参入してくることは確実だった。そうなれば自分たちの特権的地位が脅かされると考えたのである。

憲法発布翌日の2月12日、第2代首相の黒田清隆が東京・鹿鳴館で地方長官に対して演説をした。そこには危機感が表れている。黒田は、大日本帝国憲法は欽定憲法(君主である明治天皇が定めた憲法)であり、「臣民」は口出しすべきものではないと指摘。さらに、行政は憲法に準拠して進路を定め、天皇に従うのが当然としたうえで、こう述べた。

「唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して團結をなし、所謂政黨なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり、然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政黨の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす、各員宜く意を此に留め、不偏不黨の心を以て人民に臨み、撫馭宜きを得、以て國家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり」(傍点筆者)

――政治上の意見はさまざまで、各説に同意する者が集まって政党がある。それは社会の流れの中で避けられないことだ。しかし、政府は政党の意向に左右されることなく、不偏不党の立場から国を隆盛させる政策を遂行しなければならない――との内容だ。憲政史上、この黒田の演説は「超然主義」として知られるが、自由民権派に対する黒田の脅えが透けて見える。

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御雇外国人たちの提案を拒否

しかしながら、帝国議会の権限はかなり限定的だった。主権者はあくまで天皇であり、大日本帝国憲法11条が定める統帥権を筆頭として、さまざまな大権を持っていた。議会の役目は天皇を手助けすることで、宣戦や講和、条約締結、首相の任命など極めて重要な政治事項はすべて議会の権限外だったのである。

また国民が選挙に参加できるのは衆議院で、貴族院は皇族や華族、多額納税者などからなっており、一般の国民が参加することはできなかった。しかも貴族院は衆議院とほぼ同じ権限を持っていた。

だが、限定的とはいえ、国民に選ばれた議員で構成される衆議院が誕生し、少なくとも年1回は帝国議会が開かれることになった意義は大きかった。政府は国の運営の根本となる予算案を、議会の議決なしに確定させることはできなくなった。

今日から見たら大日本帝国憲法は多分に保守的に映るのだが、日本が国造りの参考にしたドイツの法学者から見たら、当時としては急進的だった。たとえば外務省の御雇外国人顧問だったヘルマン・ロエスレルは、政府が提案した予算案が議会で否決された場合、天皇の裁断によって政府が予算を執行できるように憲法で定めていくことを提案した。また同じく御雇外国人顧問だったアルベルト・モッセも、議会に予算議定権を与えることに反対していた。

だが、憲法草案の作成に関わった伊藤博文や井上毅などはこうした提案を拒否した。ただ、憲法第71条では「議会が予算案に同意せずに予算が成立しなかった場合、政府は前年度と同じ予算を施行することができる」と定め、抜け道を作った。

しかし、成長していこうとする国家にとって、「前年度並み」の予算は実質的にはマイナス成長に近い。政府は「富国強兵」「産業立国」を実現するために、軍事費や新規事業への投資、増税などを行わなければならなかった。それには議会での議決が必要となる。となれば、議会に進出した政党勢力を軽視するわけにはいかない。

そうした力をテコに、政党は藩閥政治に斬り込んでいった。

いきなり過半数割れした「吏党」

さて、話は前後するが、明治23(1890)年7月1日におこなわれた第1回衆議院選挙の詳細を見てみたい。

議員定数は300で、小選挙区を基本として全国に選挙区が設定された。今も昔も、選挙区の区割りは政党・政治家にとっては死活的な問題だ。個人の当落に直接関わってくるし、政党としての組織の影響力も大きく左右されるからだ。

選挙区の割り振りは、まず45府県(北海道、沖縄県を除く)の人口に基づいて、各府県の定数が決められた。さらに「1選挙区あたりの人口を12万人」とし、小選挙区の区割りを決めていった。たとえば東京は12の小選挙区に分けられた。

小選挙区となったのは、当時はまだ幕藩体制時代の影響が残っていたからだ。廃藩置県で複数の藩がひとつの県となったが、同じ県でも元々の藩が違えば国柄も違う。それぞれが独自の慣行や価値観を持っていたため、地域同士の利害が対立することもある。これを無理に融合させるよりは、風習や利害関係がさほど異ならない地域を1つの選挙区とするのが妥当と判断されたのだ。

1つの郡では12万人に達しない場合は複数の郡を1区とした。それが18万人を超える場合、例外として定数2となった。この結果、全国が257選挙区に分けられ、うち43区が2人区となった。第1回総選挙は、このように変則的な小選挙区制で行われた。

当時は納税額によって選挙権の有無が決まる制限選挙であった。第1回選挙の選挙権は、地租(土地に対して課せられる租税)など直接国税15円以上を納めた者、しかも満25歳以上の男性に限られていた。また、被選挙権は30歳以上の男性に限られていた。この条件に見合うのは土地資産を持つ者が多く、おおむね2~3ヘクタール以上の田畑を所有する地主・豪農や、商工業などで多額の納税をする一部の国民に限られた。「恒産なければ恒心なし」とされたのである。また、たとえ高額納税者でも、女性には参政権がなかった。有権者は45万人、全人口4000万人の1.1%、つまり100人に1人強でしかなかった。

42万2729人が投票し、投票率は約94%に達した。以来130年以上が過ぎた今日までで、これが最も高い投票率である。

ただ、選挙人(有権者)数が少ないため、当選者の得票数は今日からみると驚くほど少ない。たとえば東京3区では選挙人は311人しかいなかった。自由民権派の流れを汲む弁護士の風間信吉が当選したが、得票数はわずか56票。その他の選挙区も、当選者の得票数は58~532票であった。選挙人数が最も少なかったのは島根6区で、51人。当選した神職の吉岡倭文麿はたったの23票で代議士となった。逆に選挙人数が最も多かったのは三重2区で4500人。「1票の格差」という概念がない時代とはいえ、いびつな選挙制度であった。

もう一つの大きな違いは、記名選挙であったことだ。投票用紙に自分の名前と住所を書き、印鑑まで押さなければならなかった。これでは誰が誰に投票したかが分かってしまう。近代選挙の原則の一つである「秘密投票」ではなく、金権選挙など不正の温床になりかねない制度であった。これが憲政史に悪名高く残る、第2回衆議院選挙における政府による選挙干渉の導火線となった。

全体の結果をみれば、定員300人中、立憲自由党が130人、立憲改進党が41人、計171議席が自由民権派の流れを汲む「民党」で、政府と対立する立場であった。政府を支持する「吏党」のほうはというと、大成会が79人、国民自由党が5人、また無所属が45人のほとんどが吏党で、計129議席となった。過半数割れである。

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予算の通過が困難に

明治23年11月25日、第1回帝国議会が開会された。時の首相は長州閥の総帥、山縣有朋である。また、同じ長州からは伊藤博文が枢密院議長として並んでいた。両者は黒田と同じ「超然主義」の方針を明言していた。議会多数派である民党との激突は必至であった。

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