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上沼恵美子 独占手記「芸能界を引退しようと思った」

M‒1、番組降板、夫婦関係…… 50年の芸能人生を語り尽くした。/文・上沼恵美子

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上沼恵美子さん

一変した収録現場

コロナが本当に憎い。こんなに憎いものはありません。この1年半、本当に辛い思いを味わっています。

コロナのせいで、テレビ・ラジオの収録現場は一変しました。

いま私が抱えているレギュラー番組は、「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」(朝日放送テレビ)、「上沼・高田のクギズケ!」(読売テレビ)、「上沼恵美子のこころ晴天」(朝日放送ラジオ)の3本です。

27年目を迎えた「おしゃべりクッキング」はゲストとトークしながら調理・試食する番組ですが、コロナの影響で昨年3月からゲストをスタジオに呼べなくなりました。

「クギズケ」や「こころ晴天」でも他の出演者と十分な距離をとるか、アクリル板を挟まないとトークできない。やり取りがスムーズにできないし、「間」がどうしても狂ってしまう。おしゃべりを生業にしてきた私にとって危機的状況です。

何より寂しいのは、テレビ局のスタジオに観覧のお客さんがいないこと。寄席や劇場に出ない私にとって、生の反応を感じられるのはスタジオしかありません。

200人のお客さんがスタジオに入った時の熱気と活気たるや、すごいものがあります。他では絶対に味わえない快感で、長年にわたり私の体に沁み込んでいる。いまそれが味わえないのが残念で仕方ありません。

いざ番組収録が始まれば、もちろん全力投球します。それでも時折、集中できず、幽体離脱したもう一人の上沼恵美子が喋っている、そんな気分に陥ることがあります。

芸人になりたくなかった

実は去年すべての番組を降板し、芸能界を引退しようと考えました。きちんとお話しするのは初めてですが、本気でした。コロナで鬱々した気分が抜けないし、人生を賭けた冠番組が突然なくなったからです。

長い自粛生活でずっと目の前に霧がかかっているような気分がしています。サウナに入ると最初ちょっと息苦しいでしょう。それと似た感じで気分がスカッとしないし息が詰まるんです。読者の皆さんもこんな感覚はありませんか。

昨年の夏頃から仕事と生活の両方で、完全にやる気を失いました。化粧もしないし、美容院にも1年ほど通わず、髪の毛は自分で切っていました。コロナのせいで「もう何をしても無駄や」と、何もかも投げやりになっていたのです。

自堕落な生活を続けていたらあるときかかりつけの医者から「血糖値が高すぎる。これ以上数値が上がったら大変だ」と指摘されました。

父が糖尿病を患っていたこともあり、「これはまずい」と規則正しい生活を送るようになった。すると健康状態が一気に良くなり、精神的にも楽になった。それから美容院にも通いはじめ、毎日1000円ほどの顔パックもするなど、身の回りに気をつけるようにもなりました。ようやく元気を取り戻してきたところです。

姉と組んだ漫才コンビ「海原千里・万里」で、プロの舞台に上がってから50年以上が経ちます。

NHK紅白歌合戦の司会を2度務め、冠番組も4半世紀続いている。具沢山のチラシ寿司みたいな幸せな人生です。でも決して楽な道のりではありません。

まずお笑い芸人になるつもりはなかった。嫌で嫌で仕方なかったんです。今でこそ芸人はスター扱いですけど、私たちがデビューした頃は「笑いもの」。うら若き乙女が好き好んでやる仕事じゃない。銀行員だった父が夢を諦めきれず、娘2人を芸能の道に送り込んだのです。

当時は女性芸人が珍しく、大変な思いばかりしました。

10代の頃、学校からそのまま仕事の現場に入っていました。制服姿が可愛かったからでしょうか(笑)、ずいぶん妬まれました。楽屋に置いた私物が無くなることも度々です。

大阪・梅田の小さな劇場で漫才した時のこと。お姉ちゃんの顔がいつもと違って、眉毛が落書きみたいになっている。化粧道具を盗まれ、眉毛がうすいお姉ちゃんは、ボールペンで眉を描いていた。お客さんは誰も気づいていないんですが、私一人吹き出しそうでした。

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海原千里・万里時代

紅白歌合戦でのイジメ

忘れられないのが九州での南沙織さんのコンサートの前座です。

「お前らに控室はない」とトイレで着替えさせられました。南さんの控室はもちろんあって、御本人はまだ到着していないのに使わせてもらえない。私たちは夜行列車に揺られてやっと到着したのに、売れっ子アイドルの南さんは飛行機でピューッと来た。あまりの待遇差に悔しくて、「何が何でも売れなアカン」と痛感させられましたね。

もちろん嬉しかった思い出もあります。16歳の時、富山県滑川市で北島三郎ショーに出たとき、北島さんから呼び出されました。

「漫才の途中で歌っていたのはどっちだ?」

「私です」

「君はすごくいい声をしているし、声量もある。下らないおしゃべりなんかやめて、歌手になりなさい」

その後、北島さんと同じ顔のお兄さんが、2回ほど大阪へスカウトしに来られました。小さい頃から歌手を目指していた私にとって夢のような話ですが、姉を見捨てるわけにもいかず、お断りしました。あのまま行けば、いまごろ北島ファミリーの一員でした。

皆さんが想像するより、芸能界はやっかみとイジメの世界です。

1994、95年に司会をつとめた紅白歌合戦でもいびられました。特に1年目は辛かった。

NHKからオファーが舞い込んだ時、どっきりか冗談かと思いましたが、「おせち料理を作らないといけないし、家を留守にできません」と断りました。

それでもNHKは「ご主人に相談してもらっても構わない」と説得するので、夫(上沼真平氏、関西テレビ元常務取締役)に話しました。

夫の返事は「僕の黒豆はどうなるんだ?」。私が作る黒豆が好物なのですが、その返事に一番驚きましたね。

ところが、2、3日すると、夫が「恵美子、やっぱり紅白出てくれへんか」というのです。

夫がいうには「『あなたのせいで紅白のチャンスを逃した』と一生、責められる気がする。恵美子の人生を雑誌にたとえると、巻頭のグラビアは結婚・出産、後ろグラビアは紅白の司会になるはずやから」と。

いざ東京のNHKホールに行くと、待っていたのはいびりの嵐でした。リハーサル前から「あれ誰ですか?」みたいな形で接してくる出演者もいたし、「ホラばっかり吹いている女やろ。本番で火でも吹いたら?」などと言われ、「何で私を選んだんや」とNHKを恨んだこともありました。ただ結果的に視聴率もよかったし、いい経験になりました。

2年目になると雰囲気はガラッと変わりました。いじめてきた歌手の態度がころっと変わって「いや~久しぶりやね!」と肩を揉んでくるんです。人間って本当に怖い! 彼女に身体に触れられた瞬間、逆に肩が凝りました……。

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2年連続で紅白の司会

M-1の炎上騒動

おしゃべりの世界に好き好んで入ったわけではありませんが、関西の片隅で仕事を続けてきて、やっぱり漫才が最高の芸だと思います。この世でいちばん難しい。マイク1本を2人で挟んで、お客さんを爆笑させる芸は他にありませんし、少しでも間を外すと「シーン」ですからね。

年末恒例の「M-1グランプリ」をみてもレベルの高さは一目瞭然でしょう。才能ある若手がひしめき合っており、芸人の入れ替わりが本当に激しい。

2007年、M-1の審査員になりました。あまり気が進まなかったのですが、大会委員長だった島田紳助さんに「どうしても」と頼まれました。審査員になったばかりの大会で優勝したのがサンドウィッチマンで、その後の活躍はご存じの通りです。やっぱりスター誕生の瞬間に立ち会えるのは嬉しい。いまやサンドの富澤(たけし)くんは審査員ですからね、感慨深いです。

審査員を3年続けて1度辞めましたが、今度はダウンタウンの松本人志さんに強く請われる形で、2016年に復帰しました。もうしばらく続けることになりそうです。

年々注目度が高くなっていき、3年前には暴言騒動に巻き込まれました。私の審査が気に入らなかった芸人が泥酔し、SNSで暴言を吐いたそうです。

よく聞かれますが、本当に何とも思ってないですし、さほど腹も立っていません。私に対してどうこうというより、「更年期障害か」などと女性蔑視の発言があったから炎上したのでしょう。せっかくチャンスを掴んだのに、もったいないなとは思いましたけどね。

好きな芸人はやはりサンドウィッチマン。人間的にも温かいし礼儀正しい。そして何より本芸の漫才が素晴らしいので応援しています。

芸人さんからDVDをよく頂くのですが、さすがに全部見られない。でもサンドウィッチマン、それからナイツのDVDは必ず見ますし、楽しませてもらっています。

人生でいちばん傷ついた

「実家は大阪城」「琵琶湖は次男に生前贈与した」「通天閣はうちの物干し台」。30年近く出演したNHKの「バラエティー生活笑百科」で散々ホラを吹いてきましたが、「ホラは吹けども嘘はつかない」が私の信条です。

昨年、その禁を破ってしまいました。25年間続いた「怪傑えみちゃんねる」(関西テレビ)が7月に終了した時のことです。

本来なら改編期の9月で終わるところ2カ月前倒しで番組が終了したこと、最終回できちんと私の口から挨拶しなかったことで、様々な噂が飛び交いました。

番組終了について、ラジオで〈関西テレビさんには感謝している。足を向けて眠れません〉と説明しましたけど……ウソです、大ウソです。足を向けて寝っぱなしです(笑)。

はっきりいって人生でいちばん傷ついた出来事でした。傷つけられて、傷つけられて、傷口に粗塩をすり込まれて……。関西テレビは主人の古巣なので、あまり言いたくないですが、本当にショックでした。「えみちゃんねる」は25年間、魂を込めてきたライフワークだったのに、「こんな終わり方をするのか」って。いきなり緞帳を足の上にドーンと落とされた感じです。

番組終了の原因について今さら蒸し返しませんが、「人間って本当に恐ろしい生き物やな」と改めて痛感させられた。人を恨んだらあかんと頭では分かっていますが、いまでもやっぱり悔しいですね。

この番組には次男も構成作家として関わっていたので、女性週刊誌に「職権乱用した」「次男が出演者に嫉妬した」などと面白おかしく書き立てられました。

次男は、10年ほど前、番組の視聴率が10%を切りそうになった時、「オカンが自分の話ばかりするからあかんねん。ゲストの話を引き出す構成にしないと息が詰まる」と指摘してくれた。それで私が「じゃあアンタやってよ」と。それから彼が番組作りに関わるようになった。

彼のおかげで番組の寿命は10年延びました。「親バカ」と言われるかもしれませんが、それは違います。私は16歳から漫才師として舞台に上がっていますから、彼に笑いのセンスがあるかどうかぐらい分かります。身内贔屓ではありません。

週刊誌に書きたい放題書かれましたが、言い訳するのはみっともない。「きちんと反論を載せましょう」とオファーを受けたこともありましたが、次男と「ここは辛抱しよう」と口を噤んできました。

コロナで鬱屈したところへ生きがいだった「えみちゃんねる」が終わり、マスコミのバッシング……。

私の中で魂の火が消えていくのが分かりました。このままでは精神的にもたない。全番組を降板し、ハワイで余生を楽しく過ごそうと決断しました。しかし「ちょっと待て。今は辞めるタイミングと違う」と心の声が聞こえてきたのです。

一番好きで一番嫌いな人

コロナ下で唯一の救いは、夫との関係が悪くならなかったこと。あと6年で金婚式を迎えますが、よくもったなと思います。

結婚したのは、22歳になったばかりの頃でした。身震いするほどの恋におちた私が、無理やり結婚してもらった感じです。この世で一番好きになった人は間違いなく旦那。やがて一番嫌いになるんですが……。でも夫婦の大半が「一番好きで一番嫌い」な関係ではないですか。

結婚すると、好きだったところが一気に嫌になります。たとえばフランス料理店にデートで行くと、夫はスープをひと口飲むたび、お肉を食べるたびに、白いナプキンで口元をさっと拭う。私は、「フランス人みたいでカッコいい! キャー!」ってなる。フランス人はどんなイメージやねんという話ですけど(笑)。それが結婚した途端、「毎回毎回拭くって、どれだけ神経質なんや」と感じるようになる。そう、結婚って粗探しの連続なんですよ。

夫は典型的な「団塊の世代」で、明治男よりも頑固です。家事は絶対に手伝わない、女房を褒めない、お上手をいわない。三高ならぬ「三ない」。夫と手をつないだり、腕を組んだりしたことも1度もありません。生まれ育った時代もありますが、主人の3歩後を歩くのが普通です。

それでも結婚2年目ぐらいまでは、夫のことが好きでした。でも長男が生まれて夜泣きの日々が続くと、はっと冷静になる。夫は夜遅くまで仕事で帰って来ないし、家には姑さんしかいない。夜中に「ワーッ」と叫んでしまうほど、結婚生活に嫌気が差すこともありました。

結局、長男を出産すると、すぐに復帰します。この時期からコンビではなく「上沼恵美子」としての活動です。自由に使えるお金が欲しかったし、何よりタレントとして不完全燃焼だったからです。

復帰にあたり、夫から「歌は歌うな」「演技はするな」「東は滋賀、西は姫路まで」「僕の年収を越えるな」などの条件を突き付けられました。

結局、全部破ることになりますが、大阪を拠点に仕事をする形は、今に至るまで変わっていません。

本気で離婚を切り出した

実は6年前、60歳のときに離婚を提案しました。これっていう明確な理由はなく、長年の結婚生活でたまった灰汁をすくうような感覚です。還暦を迎えて一人になるのも寂しいかなと思ったけど、彼と暮らし続けるよりマシかと思って……。

滞在先のイタリア・フィレンツェにあるレストランで私から切り出しました。映画のワンシーンみたいでしょう。

「これからの人生、別々に息をしませんか」

そう私が言うと、夫は、テーブルをバーンと叩き、無言のまま店を飛び出した。彼の人生で一番傷ついた瞬間じゃないですかね。誇り高きプライドの塊のような男ですから。

ホテルに戻ると、夫が大きなダブルベッドの真ん中でふて寝をしていました。私に寝る場所を与えないため、ど真ん中で寝ている。意地悪でしょう。部屋にはダブルベッドがひとつあるだけでソファもない。仕方なく床で寝ました。

その旅行ではフィレンツェに2泊した後、ナポリで3泊しましたが、ずっと床、床、床。日本に帰るまで一言も口を利かなかった。せっかく高い旅費を払ったのにもったいないことをしました。

結局、今に至るまで夫からの返事はありません。離婚を突きつけられた瞬間は傷ついたと思いますが、もうけろっと忘れているでしょうね。

私は弁護士にも相談するほど大真面目でしたけど、結局、離婚話は立ち消えになりました。

いま夫とは別居しています。彼は私が買ったマンションに住んでいて、週に1回自宅へごはんを食べに来ます。なんていい身分なんでしょう。3日以上経つと、「早く帰らへんかな」と息が詰まるんですよ。ずっと一緒に住んでいたのに、不思議なものです。別居は本当におすすめ。夫も「一人暮らしってなんて快適なんだろう」と気に入っています。

ただ最近痛感するのは、だてに40年以上もひとつ屋根の下で生活していなかったということです。

本当に鬱陶しい存在ですけど、夫は私をいちばん理解してくれる味方だと、コロナ下で再認識しました。

昨年、どうしても仕事にやる気が起きない日があり、夫を初めて頼ったんです。

「『恵美子、頑張れ』と言ってくれへん?」とメールでお願いしました。すると主人から「仕事なんかへっちゃらだよ。何てことない。君には、人に迷惑かけず生きられる幸せがあるんだから」と返信があった。心に響きました。よく私の化粧は濃いと言われるんですが、その日は、いつもの2倍ほどファンデーションを塗りたくりました(笑)。私の化粧が濃いのはやる気の現れなんですよ。

東京のテレビに出ないのは

不思議なことに、コロナ下の非常事態で、夫婦の間に見えない絆を感じ、夫と助け合って生きていこうという気持ちになっています。手を繋いだことは一度もありませんけど、心の中では寄り添いたい。きっと彼も同じ気持ちだと思います。

おしゃべりだけで行けるところまで行きたい――。

昨年身を引くことも考えましたが、いまはそんな気持ちです。

タレント上沼恵美子の支えとなっているのは夫でもないし、子供、友達でもない。番組スタッフでもありません。ファンです。「えみちゃんの声を聞いたらスカッとする」というファンが私の支えです。

もちろん「もう面白くないから嫌い」と手のひら返しにあうかもしれません。それは百も承知。そういう移り気なファンから拍手をもらい続けるのは至難の業ですし、だからこそ追い求めたい。

タレント活動の傍ら、子供を産んで、夫や姑と喧嘩し、ふらふらになるまで子育ても一生懸命やりました。ファンの方には、こうした姿勢が共感というか、「ほんまもんや」と感じてもらえていると思うんです。

「東京で仕事しないのですか」と、これまで1000回以上聞かれました。

もちろん大阪に自宅があったのが最大の理由ですが、「東京のゴールデンで天下を取りたい」なんて一度も思ったことはありません。

紅白の後、東京のキー局から11本レギュラー番組のオファーが来ました。それでも東京に行かなかったのは、失礼な言い方ですが、私にはその値打ちが分からないからです。

大阪ローカルでも、小さな番組でも、視聴者が「絶対見逃されへん」っていう番組をやりたい。それだけの思いでやってきました。

おしゃべりの仕事は定年がなく、自分で幕を下ろすしかありません。いつか言葉が出なくなる日が来るとは思いますが、その日が来るまで、もう少し頑張りたいと思います。

文藝春秋2021年8月号|上沼恵美子・独占手記「芸能界を引退しようと思った」

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