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落合博満への緊張感 鈴木忠平

文・鈴木忠平(ノンフィクションライター)

なぜ、落合博満という人物を描こうと思ったのか?

拙著『嫌われた監督』が刊行されて以降、人からこう問われることがある。

落合は2003年の秋に、プロ球団中日ドラゴンズの監督に就任すると2011年まで指揮を執った。私はスポーツ新聞の記者としてその8年間を取材したのだが、番記者の仕事を終えてからも、なぜか落合に対する関心が消えなかった。「いつか、自分が死ぬまでに落合について書いてみよう」という気持ちがずっと心にあった。

その理由をあらためて考えてみると、ひとつ思い当たる。それは落合を追った日々に漂っていた緊張感である。

もう15年ほど前になるが、私が初めて自らの意志で落合を取材しに行った日がある。東京・世田谷の落合邸、門前に立っていた私に、玄関を出てきた落合はこう問いかけた。

「お前、ひとりか?」

独りで来た者の取材には応じる。それが落合のルールだった。スタジアムへ向かうタクシーの中、落合はこちらの問いをじっと待っていた。車内の空気が張りつめていた。28歳、末席の記者だった私は、ごくりと唾を飲み込んで、質問を発した——。

結果的に、あの日の緊張感は最後まで続いた。人は同じ空間で同じ時間を過ごせば解け合うものだ。初対面の緊張は薄れ、時が経てば経つほど、空気のように自然と相手を認知するようになる。だが、落合に対してだけは何度会っても、どれだけ同じ時を過ごしても、緊張が消えなかった。

落合と2人で酒を飲んだことはない。「お前にだけは教えてやる」と情報をもらったこともない。だが、手土産を持っていき、「つまらないものですが」と差し出すと、落合はこう忠告した。

「つまらないものなら持ってくるな。それはへりくだっているのかもしれないが、受け取る側はどう思う? 自分が絶対に美味いと思うものです、と渡された方が気分良くないか?」

シーズン中に休暇を取ろうとすると、釘を刺された。

「お前、休むのか? 俺たちはプロだ。シーズン中は毎日、野球をやってる。それを見てなくて、お前、俺たちのことを原稿に書けるのか?」

落合は情実的な繋がりを持とうとはしなかった。その代わり、会社員である記者にもプロとプロの関係を求めた。

そして、あらゆることに対して別れを前提としていた。

落合の退任が決まったのは2011年の9月22日、事実上の解任であった。ところが、それまで2位にいたチームはそれを機に首位を逆転し、優勝してしまった。

名古屋では落合の退任に対する議論が巻き起こり、常勝監督の契約を解除した球団へ批判の矛先が向いた。

その渦中、私が勤める新聞社に、中日の応援団を名乗る人物から電話があった。

『落合監督の退任に抗議する集会をやろうと考えています。大勢の人間が集まると思います。我々に協力してもらえないでしょうか?』

どうするべきか、私はすぐには判断できなかった。だから、落合に訊いてみた。

すると一躍、惜しまれる英雄となった指揮官は言った。

「やめておけ。俺は契約を満了した。それを更新するかどうかは球団が決めることだ。やりたいとか、やりたくないとか、そういう世界じゃない」

結局、落合は去り、私もそのシーズン限りで名古屋を離れることになった。

その年の暮れ、私は落合のもとをたずねた。よく晴れた寒い日だった。転勤を伝えた私に、落合は言った。

「ひとつ覚えておけよ」

場の空気が張りつめた。

「お前がこの先行く場所で、俺の話はしない方がいい。するな」

言葉の意味を飲み込めない私に向かって、落合は続けた。

「俺のやり方が正しいとは限らないってことだ。お前はこれから行く場所で見たものを、お前の目で判断すればいい。俺は関係ない。この人間がいなければ記事を書けない、そんな記者にはなるなよ」

それが監督としての落合から聞いた最後の言葉だった。

それから10年が経つが、落合への緊張感はいまだ消えない。それが私を惹きつける。

落合は誰かと繋がろうとも、理解してもらおうともしなかった。承認と同調を求める社会にあって孤立している。時代との、その圧倒的な隔絶が、書き手を駆り立てるのだ。

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