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『首里の馬』高山羽根子さん「手を縛られても足で書く」|芥川賞・受賞者インタビュー

受賞のことば 高山羽根子

 この困難な社会情勢の中で、自分ごときがなにを、という思いは強くあります。できることは、今までも、これからも変わらずとても小さなことです。自分の小説の中に書かれている人はいつも、大きなことをしでかしているようでもあり、なんの役にも立たないことをしているようでもあります。
 でも、この大変な、たいていの場合においてひどく厳しい世界は、それでも、生き続けるに値する程度には、ささやかな驚異に溢れていると思うのです。ときにはびっくりするくらい美しかったり、胸が締め付けられるくらい愛おしかったり、思い出していつまでも笑ってしまうくらいこっけいだったりします。この、どれだけ書いても書き足りないくらいの、それらのことについてを、私はずっと書き続けていきたいです。

〈略 歴〉
一九七五年、富山県生まれ。多摩美術大学卒。二〇一六年「太陽の側の島」で第2回林芙美子文学賞受賞。第160、161回芥川賞候補。

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「30の手習い」

――3度目の候補でしたから、受賞が決まった時は、ご家族も喜ばれたでしょう。

高山 喜んでくれていました。それはよかったのですが、なんかオロオロしているところもあって。私がこちら(インタビュー場所)に向かっている最中にも「家にすごい胡蝶蘭が届いた!」って連絡をしてきました。「祝開店」みたいなやつがどーん、と届いたみたいで、「置くところないよ、どうしよう」って。

――ご主人は以前、「文春オンライン」などでも記事を書いていたことがあるそうですね。

高山 (のけぞりながら)あ゛ぁ゛~……そうなんです。本職は別にあるんですが、食べ物系のライターもやっているんです。昨日(受賞当日)、記者会見場に私が着く前にはもう「文春オンライン」の方から彼のところに、「とりあえずなんか書いてください」って連絡がきたそうです(笑)。結局、その話は今日このインタビューがあるから、ということでなくなったみたいですが。本当に余計なことを言う人で、それでいつも私にすごい怒られる。だから結果的になくなってよかったですね(笑)。

――高山さんは多摩美術大学で日本画を専攻されていたそうですね。

高山 日本画では、具象物、とりわけ生き物をよく描いていました。好きだったんですね。制作は好きでしたが、そのほかにも映像表現だとか、写真史や解剖学なども好きで、わりとまじめに出ていたように思います。

――大学で美術の勉強をされていたのに、30歳を過ぎてから小説を書き始めたのはなぜですか?

高山 就職氷河期世代だったこともあり、卒業後はダブルワーク、トリプルワークを含め、土日や早朝、深夜を問わず働いていました。テレビ画面に流れるテロップや地図を作る仕事、編集プロダクションのお手伝いに、イベントスペースで飲み物を提供する仕事、絵画教室の講師……20代は本当にいろんなことをやりましたね。

30代半ばで転職し、いわゆる「9時5時」の生活になりました。毎日のように芝居を観れるし、日曜日に美術館にも行ける。いろんなことを始めようと思って、辿り着いたのが文章を書くことでした。

「30の手習い」ではないですけど、社会人向け文章教室に通い始めたんです。小説やエッセイ以外にも、ウェブライター志望もいたし、私みたいに、何か分からないけど楽しいことが書きたい人もいた。それぞれ書いて、作品について自由に語り合う。授業が終わっても、みんなで近くのデニーズに行って、「あの登場人物は絶対あそこで死なない方がいい」とか、ああでもない、こうでもない、と議論してすごく楽しかったです。

月に2度くらいのペースで2年弱くらい通いましたが、当時はまさか小説家になるとは思っていませんでした。

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芥川賞作家と切磋琢磨

――先生はどなたですか?

高山 根本昌夫先生です。

――あっ、高山さんもですか。2018年に芥川賞を同時受賞した若竹千佐子さんと石井遊佳さんも根本先生の教室に通っていましたね。

高山 石井さんはたぶん違う教室だと思います。根本先生はいろんなカルチャースクールや私塾をお持ちなので。私は早稲田大学の社会人授業で、若竹さんも同じタイミングで入ってきたんです。

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根本氏

――若竹さんが芥川賞を受賞された時はどう感じました?

高山 そうだろうなと思いました。私は「ちょっと時間が余ったから来ました。アハハ」って感じでしたが、若竹さんは旦那さんを亡くされた直後だったので、覚悟が違いました。当時から、彼女は絶対、「何か」になると思っていたんです。

若竹さんとはすごく仲良くさせてもらって、家に泊まりに行ったこともあるんですよ。

――若竹さんのご自宅でも、小説論を交わされたんですか?

高山 小説の話よりは、どう生きてきたかとか、いろんな話をしました。当時、私はまだ結婚していなかったんですが、「高山さんは1人でいいよ。ずっと独身でいなさい」と言われた記憶があります(笑)。

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処女作「ヨシザキの愛」

――根本先生の教室で最初に書いたのは、どんな物語でしたか?

高山 実際にあったことなんですけど、ある男子が私の友達を好きになったんです。男子と言ってもたぶん30歳くらいの人ですが。彼女はカエルのTシャツばかり着ていたので、カエル好きだと思ったんでしょうかね。よりによって、彼が水槽ごと本物のカエルをプレゼントしてきたんです。すっごい模様のアフリカのカエルだったんですけど、その子は泣いて困惑していて。

――プレゼントが嫌だった?

高山 だって、カエルもらったら怖くないですか? 彼氏でもない男ですよ。「家に持って帰りたくない。捨てたい」って泣くんですけど、「アフリカのカエルだから、捨てたらヤバイことになるんじゃないの?」ということになって、仕方なく私がもらったんですよ。その男子に見つからないように、バスの乗り換え場所でコッソリと受け取りました。

男子の名前をもらって、そのカエルに「ヨシザキの愛」って名前を付けたんです。そしたらそいつ、8年くらい生きたんですよ。結構大きくなるまで育てました……っていう話を、原稿用紙7枚くらいで書いたら、いろんな人に面白いって言ってもらえたんです。その時、文章で笑ってもらうのって嬉しいなって実感しました。根本先生からも、「書き続けたらいいんじゃない」と。そういうことをしれっと言う人なんですよ。でもそれが嬉しくて、「続けてみよう」と。最初は7枚しか書けなかったけど、15枚になって、30枚になって……と増えていった感じです。

――デビューはSF作品「うどんキツネつきの」でした。

高山 半年くらいして、教室の女性が、「高山さんは変な話が好きだから応募してみたら」と、SF短編賞の第1回の募集を教えてくれました。すると賞は獲れませんでしたが佳作に選ばれて活字デビューができたんです。3回、芥川賞の候補になっているので、「苦労の人」みたいに言われることもあるんですけど、そんなことはないんですよ。

私は元々、絵の勉強をしてきて、文学を学んだわけではありません。最初はSFの人から変わり者呼ばわりされて、純文学の人にもSFっぽいとか言われて、どちらからもよそ者扱いというか。でも、段々、本が好きな一部の人に好いてもらっている喜びを実感できるようになっていった。そういう人をがっかりさせないように書き続けてきたんです。

――子供の頃から本がお好きだったんですか?

高山 文学全集で「羅生門」や「鼻」みたいなものは読んでいましたが、文学少女ではありませんでした。両親の本棚に並ぶサリンジャーの作品を見て、「ちぇっ、気取りやがって」と思っていましたが、大学生になると、私もポール・オースターを読んで、「わぁ〜」と感動してしまったんです。あとはブローティガンとかミルハウザーも読みましたね。日本の作家でいえば、藤枝静男さんの奇譚が好きでした。『田紳有楽・空気頭』を読んで、「お茶碗が主人公でもいいのか。自由でいいんだ」と。

――ご両親が読書家だった?

高山 そういうわけではないです。サマセット・モームとか「とりあえずこれだけは読んでおいた方がいい」という小説は家にありましたが。両親とも大学を出て、サラリーマンの共働きで神奈川の郊外に住む……「ザ・量産型」みたいな家庭ですね。

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