見出し画像

ソニーよ、何処へ行く|井深大【文藝春秋アーカイブス】

2021年3月期に過去最高益を達成したソニーグループ。戦後間もない頃に設立された「理想工場」は2021年5月に創立75周年を迎えた。今やエレクトロニクスだけの会社ではなく、祖業は守りつつもゲームや金融などが経営の柱となっている。

今から30年前、創業者の一人である井深氏は、「文藝春秋」のインタビューで次のように語っていた。

「どんな変化にでも対応できる人が経営者となって、どんどん会社を変えていく、それが一番、おもしろい特色というものが発揮できるんじゃないですか」

まさに現在のソニーグループの姿を予言するような言葉を残している。

※本文中、年齢や肩書きは当時のままです

画像1

井深大

経営のから身を引いたソニー創立者

井深大。明治41年栃木県生まれ。82歳。ソニーの創立者であり、独創的な製品を次々に開発して、これを「世界のソニー」にまで育て上げた。このほど44年間勤めた取締役を退任、新たに設けられた「ファウンダー・名誉会長」なる役職に就き、経営の一線から身を引いた。

「ファウンダー」というのは、日本の創業者とか創立者とかいうのを英語にしただけでね。アメリカなんかじゃ、よく使ってる肩書ですよ。どこだったかの有名なコンピュータ会社にもそういう人がいますよ。

今度のことは私のほうから「もう取締役は勘弁してくれ」と頼んだんです。もういい歳ですし、ゴルフでも3ホールか4ホール、ヒョロヒョロやると、もうくたびれてしまう。頭の方も古臭いことばっかり詰まってますからね。

取締役でいますと、やはり取締役会には出なきゃいかん、株主総会にも出席しなきゃいかんと、いろいろルーチンの仕事がある。といってそれを欠席するのは、また気がとがめる(笑)。そういうものを全部、免除してもらって、頭の中の古臭いことも全部捨ててカラッポにして、疲れて弱った身体もオーバーホールして、これからは自分のやりたいことだけをやろうと思ってるんです。

だから昔話をするのも、もうこれでお終いにしてほしいものです(笑)。

氏は早稲田大学理工学部卒業後、PCL、日本測定器などに勤務。終戦直後の20年9月、東京通信研究所を設立。翌年、これを株式会社とし、東京通信工業を創立した。これが「ソニー」の前身である。

当時は工場をさがそうにも、場所がなくてね。最初、日本橋・白木屋(現・東急百貨店)の戦災の焼けあとに入っていたんですが、そこを追い出されて、次に吉祥寺の車庫の片隅をかりて、消防自動車と同居しながら仕事をしていました。

ところがこれじゃあ、あんまり狭すぎるというので、ほうぼう探して、やっと品川の御殿山に日本気化器の社員食堂の残骸みたいなところを見つけて、貸してもらえることになったんです。

ところがこれがひどいバラックで、おまけに爆撃の跡なのか天井に大きな穴が開いていて、部屋の中にいても雨が降ると傘をささなきゃ仕事できなかった。ちょうどそれがいまの本社工場のある場所ですよ。

その当時は、45年たって、こんな会社になるなんてことは、夢にも考えてませんでしたよ。ちょうど盛田君(盛田昭夫現会長)と一緒に工場さがしをやっていた時、2人で、「いつかはエレベーターのある社屋に住みたいもんだなあ」としみじみ話したことを覚えています。それがそんな昔のことでもないという気がするな(笑)。

画像2

ソニー本社(インタビュー当時)

危機を乗り切る「気合い」

「人のやってることはやるな。人のやらないことだけに集中しよう」というのが、その当時からの私のポリシーでした。あの時代、ラジオをこしらえれば食っていけるということはわかっていたんです。だけど、ラジオなら、よその会社がどこでもやる。

「いまに自社で真空管を作れるメジャーな会社が復旧して、じゃんじゃんラジオを作り始めるから、絶対にラジオには手をだすな」

というのが私の命令でした。中には、「ラジオをやらせてくれないなら、会社を辞める」といって、実際、辞めていった人も2人ほどいた。それでもやらなかった。

その代わりに、テープ・レコーダーを作ろうということにしたんです。といってもその頃はまだテープ・レコーダーなんて日本にはなかったから、最初は戦時中からあったワイア・レコーダーを作ろうと思いましたが、そんな細い鋼鉄線を作ってくれるところがなく、すぐにやれる訳はない。片手間にラジオの修理をしたり、いろんなことをして食いつなぎました。

新円をかせぐために、今から思えばずいぶんインチキなものも作りました。美濃紙の間にニクロム線をくっつけて布でおおった電熱マットというのもあった。ところがこれは、夜、電圧が上がると熱くなりすぎて焦げてしまう。木の桶の下に電極をつけただけの電気炊飯器も試作しましたが、どうしてもうまく炊けないで失敗に終わった。短波のコンバータというのも作りました。戦時中、空襲警報を聞くんでどこの家にもラジオ受信機があった。それにつなぐだけで短波放送が聞けるようになるという機械です。これはいくらか売れた。

テープ・レコーダーの開発にもずいぶん苦労しましたが、昭和25年、ついに国産初のテープ・レコーダーを発売することができた。これは裁判所、学校などに売れて、会社経営もどうにか安定したんです。そこで次に乗り出したのが、発明されたばかりのトランジスタだったんです。

当時、トランジスタなんかに手を出すというのは、冒険も冒険。「そんなものやったらとんでもない目にあうからやめなさい」という反対論者がほとんどだったんです。それでもやった。

それは「独創的なことをやる」なんて恰好のいいもんじゃない。いまに東芝とか三菱とか日本無線とか、戦前の通信機の大手が復旧していくのは目に見えていた。とにかく大手と競争になったらひとたまりもない。よそのやってない所で、なんとか活路を見出そうとこちらも必死だったんです。

このトランジスタを使ったポケット・ラジオの成功が、「世界のソニー」の基盤を作ったともいえる。昭和32年に発売した世界最小のスピーカー付ポケット・ラジオは、戦後の日本の本格的輸出の第1号ともなった。そしてその後も、トランジスタ・テレビ、トリニトロン・カラー・テレビ、ビデオなどを次々に開発し、世界を市場として大きく成長していった。

画像3

世界最小のスピーカー付きポケットラジオ

コンシューマー・プロダクツ、つまり一般の消費者の人が使う市販商品を作る、というのが私のポリシーでした。プロ用のもの、あるいは役所に納める製品は作らない。

というのは、戦争中われわれは、ほとんど役所や軍のものばかり作ってたわけです。ところが軍には軍の、役所には役所の仕様書があって、その通りに作らなければならない。いくらいい発想をしても、勝手に改良するわけにはいかないんです。

ここから先は

6,093字 / 5画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください