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柳田邦男【再検証・コロナ対策】 この国の「危機管理」を問う|“リスク分析先進国”ドイツと日本は何が違うのか

欧州で新型コロナウイルスが猛威を振るう中、なぜドイツだけ格段に致死率が低かったのか。そこから学べる教訓とは何か。一方、「危機管理の絶対条件」が欠落していた日本政府の対応は何が問題だったのか。数々の災害、事故を取材してきたノンフィクション作家の柳田邦男氏がコロナ対策を再検証する。/文・柳田邦男(ノンフィクション作家)

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柳田氏

最悪のリスクをシミュレーション

中国の武漢で、後に新型コロナウイルスと名付けられる、未知の肺炎患者が相次いで発生し始めた2019年12月から遡ること7年、2012年12月、ドイツのロベルト・コッホ研究所が、災害や未知のウイルスから国民の命を守る国策を推進するための『リスク分析報告書2012』をまとめて、翌1月、連邦政府に提出した。

コッホ研究所は、かつて世界を恐怖に陥れた伝染病コレラの病原菌を発見した細菌学者ロベルト・コッホの名を冠した世界的に権威のある国立の伝染病研究所だ。研究部門は多岐にわたり、科学者だけでも約450人を擁している。

この『リスク分析報告書』は、国民の命に深刻な危機をもたらすおそれがあるにもかかわらず、発生確率が低いことなどから、それまでは国策の対象にされなかった巨大なリスクについて、最先端のシミュレーション技術を駆使して、リスクが最悪のレベルで現実のものとなった場合に何が起こるかをリアルに描き出したものだ。

対象になった巨大なリスクとは、1つは、数百年とか千年に1回という、発生の極めて稀な春先の異常な気温の上昇に伴うドイツ山岳部の急激な雪解けによる大洪水だ。そして、もう1つは、死亡率の高い新型のウイルス感染症の発生とその爆発的な拡大だ。

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ドイツの山岳部

注目すべきは、リスク分析によって明らかになったことを、為政者がコトの重大性を実感し、提言を活かす行動を起こさざるを得なくなるような叙述のスタイルでアピールしている点だ。具体的には、たとえ発生確率が低くても、一旦その事態が生じると、多くの人々の命が奪われ、甚大な被害をもたらす可能性がある問題については、真正面からそのリスク分析に取り組み、被害の発生から拡大へのプロセスと拡大要因を、ドラマのシナリオのようなスタイルで描き出したのだ。

ここでは、右記の2つのケースのうち、未知のウイルス感染症の問題について、『リスク分析報告書』に記された想定ドキュメントのシナリオを要約して紹介したい。

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コッホ研究所の『リスク分析報告書2012』

新型コロナに酷似した性質

未知のウイルスとして設定されたのは、2002年から03年にかけて流行したSARS(サーズ)ウイルスの遺伝子構造に突然変異が生じて新たなウイルスとなったもので、「Modi-SARS(モデイ・サーズ)」(変異型サーズウイルス)という名称がつけられた。「変異型サーズウイルス」の潜伏期間は2日から14日で、発症すると、症状は発熱、乾いた咳(せき)、多くが呼吸困難、レントゲン画像で見える肺の異常(肺炎の影)、寒気、筋肉痛などの他、下痢、頭痛、痙攣(けいれん)なども起こりうる。致死率は全体では10%ほどと高い。年齢差があり、子どもや若者は病状が軽く、致死率は1%程度であるのに対し、65歳以上では約50%と高い。

感染は、主に感染者の発声、咳、食事、吐出物などで飛び散る飛沫により拡がっていく。ウイルスは、ドア、テーブル、ステンレス、プラスチックなどの表面でも数日間は感染力を持ち、とどまる。治療薬はなく、ワクチン開発には3年かかる。感染の拡大は、家庭内での接触、病院内、公共交通機関、職場、娯楽施設などで起こる。感染を防ぐには、マスク、保護メガネ、手袋、感染者の隔離などの方法があるが、隔離は症状が出てから行われるので、発症時にすでに誰かに感染させている可能性があり、完全な予防策にはならないことに注意すべきである。

驚くべきことに、このような仮説の「変異型サーズウイルス」の性質を見ると、今回の新型コロナウイルスの性質に酷似しているではないか。

では、このウイルスは、どのようにしてドイツに持ち込まれ、拡散するのか。

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そのドラマがいよいよ始まる。2人のドイツ人が、東南アジアと中国から帰国する。1人は、ビジネスマンだ(ここではA氏とする)。その頃、東南アジアと中国で、これまでにはなかった「変異型サーズ」が広がり始めていたが、ヨーロッパではまだ注目されていなかった。A氏はドイツ北部の大都市で開かれる見本市の仕事を担当していて、東南アジアへの出張から帰国したのだ。

もう1人(B氏)は研究者だ。B氏は中国に半年ほど留学していたが、A氏の次の日に帰国し、南ドイツの研究機関に向った。

WHO(世界保健機関)の新しいウイルスに対する反応は遅く、いまだ警鐘は発せられていない。A氏もB氏も、感染の自覚はなく、重い症状も出ていなかったので、それぞれに活動を始めていた。3日ほど経つうちに、それぞれ周囲の3人に感染させていた。さらに東南アジアや中国からの帰国感染者が両氏を含めて10人に増え、「変異型サーズ」の感染者は、ドイツ国内で急速に拡がっていき、ついにパンデミックの状態になる。

このように新型ウイルスのパンデミックのそもそもの“出発点”になる帰国感染者を、2人という少ない人数に設定し、その行動を追跡したことについて、『リスク分析報告書』は、次のような注を付している。

〈(最近のウイルスの拡がり方では)世界規模の感染を引き起こすには、最初は極端に少ない事例でも事足りる〉

この捉え方は、国家の危機管理の立ち上げを考えるうえで、極めて重要だ。国民の命にかかわるような重大事に対する危機管理の成否を分ける第1歩は、重大事の端緒となる小さな出来事をすばやく探知して、その出来事がもたらすものの意味を察知することだからだ。

在来の対策ではパンデミック突入

『報告書』は、さらに政府、自治体、医療機関、企業などが、どのように対処するかについて、罰則を伴うかなり厳しい規制を含む従来からのドイツの感染予防法などに基づく感染者の隔離、学校の閉鎖、大規模イベントの中止などの取り組みを列記していくが、その中には次のような指摘もあるのだ。

・この新型ウイルスに対する対策の取り組みは、感染者が10人死亡してからやっと始まる。

・これらの対策が早期に実施されるか遅れるかは、感染の拡大を遅らせられるかどうかに影響を与える。

これらは、在来の対策だけではパンデミック突入は防げないという意味で記述したという印象が強い。

結果は、どうなるのか。シミュレーションの結果によると、ドイツのパンデミックの第1波は、1年余り続いて2900万人が感染。その後の第2波では2300万人、第3波では2600万人が感染し、これら3波の中で少なくとも750万人が死亡するという。死亡率は10%強になる。さらに医療の混乱により、「変異型サーズ」に直接関係のない病気の患者が適切な医療を受けられなくなって、死亡率が上がるというのだ。

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「変異型サーズ」の感染拡大が、第2波、第3波と繰り返す原因となるのは、第1には、ウイルスが更なる突然変異を起こすことによって、第1波で感染して体内に抗体ができた人でも、再感染するためだ。そして、第2には、第1波が終息すると、人々の気持ちが緩んで、十分な防護策を取らなくなるためだ。

それにしても死者が750万人にもなるというのは、いかにも衝撃的だ。ちなみにドイツの人口は約8000万人だから、その9%以上もの人々が新型のウイルスで命を奪われるのだとしたら、深刻な国難だ。

ドイツは8年前に準備を始めた

コッホ研究所の『リスク分析報告書』は、次の点で重要な意味を持った。

(1)国民の命が危機に直面することになる戦争以外の近未来の重要課題として、異常な雪解け大洪水と新型ウイルス感染症のパンデミックの2つをあげ、しかも2つは一見異質な災厄であるにもかかわらず、バラバラにでなく、国策の課題研究として1本化して、それぞれに起こり得る最悪の事態の想定を提示したこと。

(2)国民の命の危機管理には、発生する最悪の事態を単に被害規模を数的に捉えるのでなく、そこに巻き込まれていく人々や医療機関などの姿を傍で同時体験するようなリアリティのあるかたちで捉え、その実態を記述する必要があること。そういう叙述こそが、専門家や為政者をして、想定された事態を、乾いた3人称の視点でなく、わが身・わが家族(1人称、2人称)がその禍に巻き込まれたらという切羽詰まった思いに駆り立て、提言と真摯に向き合わないではいられなくするのだ。ただ、専門家や為政者がそういう感性を持ち合わせていなければ、まるで話にならないが。

(3)危機的な事態には、はじまりがある。そのはじまりはどのようなかたちで姿を現すのか。専門家がその現象をすばやく察知して、《これは大変なことになる》と心を動かし、為政者に進言することが、危機管理の成否を分けること。

(4)いざという時に、危機管理対策がフル回転して事態の悪化を制御できるかどうかは、事前の平常時における、専門家の提言を生かす、きめ細かな体制整備と実践に直結する大規模訓練の繰り返しによる磨き上げが必要であること。

これらは、日本で欠落している危機管理の絶対条件だ。

ドイツの連邦政府と医学・医療界、民間の研究機関などは、その後、この『リスク分析報告書』の提言に沿って、未知のウイルス侵入に対する体制整備を進めた。

そして、7年が過ぎ、2020年の新年が明けるや、コッホ研究所は中国・武漢での新型ウイルスによると見られる肺炎患者の急増にいちはやく注目して、L・H・ウィーラー所長の決断で情報の収集・分析をするワーキングチームを発足させた。1月6日月曜日だ。

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習近平国家主席

中国では、翌7日に中国疾病対策センター(アメリカのCDCに相当)がはやくも病原体を特定することに成功した。それは、2〜3年のサーズとも12年のマーズとも違う型のウイルスだが、ウイルス学上ではコロナウイルスと呼ばれる種族(サーズもマーズも含まれる)の変異型で、「新型コロナウイルス」と名付けられた。ウイルスの分子構造の一部が違うだけなのだが、一部が違うだけで、人体に対する凶暴性に違いが出てくるのだ。コッホ研究所が近未来予測で想定した「変異型サーズウイルス」もまた、コロナウイルスの仲間で、「新型コロナウイルス」に性質が近似していた。

PCR検査を国家総動員で

ドイツ国内で最初の感染者が確認されたのは、日本より遅く、1月28日になってからだが、患者発生を予測しての行政と医学・医療界の対応は早かった。コッホ研究所はワーキングチームを強化、新型コロナウイルスは従来のインフルエンザより危険性が10倍も強いと公表するとともに、関係医療機関に来院者や住民に対するPCR検査体制を十分に整えるよう呼びかけたのだ。

メルケル首相が司令塔となって、強力な行動を起こしたのは、3月に入ってすぐだった。

メルケル首相はスパーン保健相らと共に全国16の州知事との会議を開き、新型コロナ禍の拡大を防ぐための緊急対策について、政府、自治体、関係機関が一体となって強力に進めることに合意した。すでに政府も自治体も民間を含む関係医療機関も新型コロナウイルスに対して、それぞれに対処し始めていたが、政府がコッホ研究所の助言を受けてまとめた、より強力な方針を全力をあげて実践しようというのだった。

その方針のうち特筆すべきものは、こうだ。

(1)すべての対策の基礎データとなる感染者の全体像を把握するために、PCR検査を1日当たり5万件の規模で実施する。そのために公的医療機関だけでなく、全国に散在する100か所以上の民間研究機関を総動員して、人員・機材などを整備する。週7日、連日24時間体制で、検査のスピードを上げる(ドイツでは、サーズや新型インフルエンザの流行の後、これら医療機関のウイルス検査機能の拡充が進んでいた。1日に最大で4000件の検査ができる公的な機関もある。多くの病院が感染防止と検査のスピードアップのために、いちはやく院外に設けた仮設の検査場で、ドライブスルーの検査を始めた)。

(2)何らかの症状で感染かと思う人は、ホームドクターに相談すれば、すぐに検査可能な機関に紹介してもらえるようにする。濃厚接触者については、医療機関の医師が防護服を身に着けて自宅を訪れ、検診・検査を行い、感染の有無を早急に確認する取り組みも、スタッフの余力がある場合には考慮する。

(3)すべての感染者を入院隔離すると、感染者が激増した時、重症・重篤患者を受け入れられなくなるため、軽症者や無症状の感染者は自宅療養(自己隔離)とする(ドイツにおいては、ホームドクター制が定着していて、ホームドクターが自宅療養者に対応する)。

(4)重症・重篤患者の治療に万全を期するために次の対策に取り組む。①全国の医療機関が有する人工心肺装置を、各州の感染症治療基幹病院に可能な限り集める。②急を要しない手術は夏まで延期する。

芸術家たちを「見殺しにしない」

メルケル首相は、国民の健康と命を守るためのこのような画期的な新型コロナ対策を打ち出すとほぼ同時に、3月9日には、企業の経営破綻と従業員の解雇を回避することを主眼とする経済対策を打ち出した。私が注目したのは、1つは、フリーランサー、自営業者、小規模事業者、農業者に対する緊急援助対策をはやくも打ち出したことだ。ネットによる申請手続きは簡単で、援助額はとりあえず3か月分として、5人以下の事業者に対しては約100万円、10人以下の事業者に対しては約170万円。申請すると、すぐに支給される。2か月も3か月も待たされる日本との違い!

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メルケル首相

もう1つは、文化施設や芸術家に対する支援だ。経済対策発表の2日後にモニカ・グリュッタース文化相(女性)が公表したプレスリリースの言葉は、感銘深い。

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