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塩野七生 コロナウイルス散見記 日本人へ204

文・塩野七生(作家・在イタリア)

4月12日、執筆中だった書き下ろしの550枚、脱稿。最後に「完」と書くときの気分は、50年が過ぎようとやはり格別。その後にいつもならば、「2020年・春、ローマにて」と書くのだが、今回は、「4月12日、コロナウイルスのおかげで外出厳禁中のローマにて」と書いた。だが、これが店頭に並ぶのは12月に入ってからだから8カ月後。多分、最後の1行は書き直すことになるだろう。

とまあこんな具合で、イタリアを襲ったロックダウン現象は、私個人にとっては少しも苦ではなかったのだ。日本とは行き来もできなくなっているし、ヨーロッパ各国ともが国境閉鎖なので、誰も訪ねてこない。イタリア内も、芸能人まで総動員して「家にいましょう」の大キャンペーン中なのだ。

といってもこの大流行もようやく下火に向いつつあるようで、疫病の専門家以外のイタリア人の関心は、すでに次の2つに向けられている。

第1は、疫病の第2段階という意味での操業再開。第2は、これまでの生き方は変えるべきではないかと、考え始めていること。

操業再開とは、いつ、どのような状態で、の問題だが、私個人は、完全なロックダウン方式にはもともと賛成でない。人類の歴史は疫病の歴史といわれるくらいで、終息したと思っても何年後かには必ず襲ってくる。ただし近年は、グローバル化の影響か、間隔がひどく縮まったようではあるけれど。

要するに、患者数ゼロの絶対安全を目指すか、それとも水ぎわ防止を恒常的な制度にし、つまり可能なかぎり犠牲を少なく抑える政策を確立したうえで疫病との一種の共生を目指すか、のちがいではないかと思う。

具体的には、これまで我々は外国から日本に帰ってくると空港の「検疫」と書いたところを素通りしていたが、これからは素通りはできないということです。

面白いのは、疫病の専門家を始めとする医療関係者たちの間でも、意見が分れていることである。

医師とは、理系と文系の境で考える人と思う私だが、絶対安全派と最小限度のリスクは甘受しての共生派との対立は、医師たちの世界ではより明らかで、その他の分野、たとえば原子力発電の分野では、それほどでもないような気がする。福島第一で絶対安全は神話であったことが明らかになったにもかかわらず、原発再開にはあいかわらず、「絶対安全」を主張しているのだから。神話崩壊を認識したうえで対策を立てるのは、文系的な考え方なのかもしれない。

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