新連載 菊池寛 アンド・カンパニー 鹿島茂
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新連載 菊池寛 アンド・カンパニー 鹿島茂

文藝春秋digital
「若手作家に活躍の場を与えたい」。文藝春秋をつくった男の“起業家”ストーリー。/文・鹿島茂 (フランス文学者)

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鹿島氏

社風という共同幻想

社風という言葉がある。しかも、言葉があるだけではなく、その実体も確かに存在するのだ。

私はこれまで、物書きとして文藝春秋、新潮社、講談社、中央公論新社、集英社、筑摩書房、平凡社、白水社等々、さまざまな出版社の編集者と付き合ってきたが、各人はそれぞれ個性あふれる一個人であるにもかかわらず、そうした各個の個性を超えたところに、ある種の共通性、類似性、つまり社風というものが存在していることをどうしても認めざるをえないのだ。

これは不思議なことではあるまいか?

なぜなら、入社すべき会社の選択はあくまで個人の自由意志に委ねられているからだ。入社試験の難易度による選択肢の限定、また、その出版社が出している本や雑誌への好き嫌い、あるいはコネという人脈も選択に関係しているかもしれないが、しかし、それらは無視しえる要因でしかない。入社はあくまで自由意志に基づく選択であるはずだからである。だが、自由意志による入社であるにもかかわらず、会社に入ってしまうと、その人は摩訶不思議な収斂作用に身を委ねるほかはなくなる。そして、いつしか当人が気づかぬうちにその人は自己幻想とは別の社風という共同幻想の虜となっているのである。

私はこの社風という共同幻想の謎を解いてみたいと長年思いつづけてきた。というのも、私がここ20年ほど手掛けてきたのは集団意識ないしは集団の無意識という問題だったからだ。社風というものはそうした集団の無意識の中では比較的に起源がわかりやすいもののはずなのである。

だから、本誌『文藝春秋』から創刊100年記念として創業者・菊池寛を顕賞したいので、その評伝を書いてみないかというオファーがあったとき、私は一も二もなくこれに応じることにした。というのも、大正12年1月に『文藝春秋』創刊のために文藝春秋社(1923年の創業時の名称。現在は株式会社文藝春秋。以下、文春と表記)を小石川区林町の自宅に設立した菊池寛という人物ほど社風という共同幻想の問題を考える上で最適な人物はいないと感じていたからである。

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創業者・菊池寛

上役も「さん」と呼ぶ非権威主義

だが、なぜ菊池寛が社風という集団の無意識研究に最適な人物であるのか? それは、文春の社風が創業者・菊池寛の独特のパーソナリティに負うところが非常に大きいからだ。しかし、こう書くと、出版社の社風が創業者のパーソナリティと密接な関係があるのは文春に限ったことではなく新潮社、講談社、岩波書店など創業者が個性的な出版社はどこもエッジが立っている社風をもっているではないか、社風研究と銘打つのだったら、こうした他の出版社と文春を比較しながら論を進めるべきではないかという反論が出てくるだろう。その通りである。この点については私もまったく異論はない。げんに、これからただちに比較研究を行うつもりである。

だが、その点は認めた上で、文春の社風には他社にはない際立った特徴というものがあると感じざるをえないのだ。文春の社風には他社とは少し次元の違う要素が含まれているような気がするのである。ではいったい、文春の次元の違う社風とはいかなるものなのか?

それは、(1)平等性・(2)楽天性・(3)汎用性(非専門性)・(4)市民(ブルジョワ)性・(5)個人主義という特徴に要約できる。

(1)の平等性というのは、文春には年齢・地位の上下による区別意識があまりなく、新入社員でもベテラン社員と対等につきあえるということを意味する。聞くところによると、役職付きの上役であっても役職名で呼ぶことはなく、全員が「さん」と呼び合っているという。ひとことでいえば非権威主義的であり、年齢や地位といった権威をあらかじめ定まった前提として認めてはいないということなのだ。賃金も役付きになるまでは横並びの平等だという。

ただし、この平等理念が及ぶのは男性社員に限られ、女性社員はそこから除外される。といっても、賃金に差別があるわけでも女性が役職に就けないわけでもない。つまり、制度的には男女は完全平等になっているのだが、男性社員のあいだにある種のホモソーシャリズムが存在しており、このホモソーシャリズムは女性を排除したうえで担保される男子間の平等に基礎を置いているのだ。

文藝春秋は、私が『「レ・ミゼラブル」百六景』を出すために本社に日参していた1986年にはまだ大卒女子を採用しておらず、募集される女性は一般事務の短大卒だけだった。他の大手出版社はすでにかなり前から大卒女性をたくさん採用していたから、これを聞いたときには、当時でさえ「なんと時代錯誤的なことか」と驚いたものである。この同じ1986年に男女雇用機会均等法が施行された結果、ようやく文春でも翌年から女性募集は短大卒のみという規定が撤廃された。しかし、女性社員の話を聞くと、いまだにその影響は残っているという。

とはいえ、ホモソーシャルであるものの、文春の社風に平等性というものがあることは間違いない。これは、同族企業的な他の大手出版社にはないものであり、文春の最も顕著な社風となっている。

水の入ったコップを前に「まだ半分もある」

(2)の楽天性については、故・丸谷才一氏が文藝春秋と新潮社のメンタリティの違いを表現するのに、半分だけ水が入ったコップを前にしたときの両社の編集者の反応を挙げていたことを思い出す。すなわち、新潮社の編集者が「半分しかない」と悲観的に捉えるのに対し、文春の編集者は「まだ半分もある」と楽天的に考える、ということなのである。これは陽性・陰性という特質ともつながっている。文春の社員で、私がつきあった限りでは、陰性の人はあまりいなかったような気がする。これは初めから陰性の社員を採用しないのか、それとも会社にいるうちにみんな陽性になってしまうのかよくわからないが、とにかくそうなのである。

そういえば、故・野坂昭如氏が雑文家時代に黒メガネが発するうさん臭さを槍玉に挙げられ、週刊誌の標的にされた頃のことを回想し、『週刊文春』にやっつけられてもそれほど堪えなかったが、『週刊新潮』に攻撃された心の傷はその後もいつまでも疼いたとどこかで語っていたと記憶するが、これもまた両者の違いをよくあらわしている。

しかし、文春の楽天性というのはノンシャランス(ちなみにこれはフランス語です)性にも通じる。たしか、『週刊文春』で悪の権化のように批判された政治家や元官僚が、文春の編集者はしばらくすると自分が批判したことをケロリと忘れたように寄稿の要請をしてくる、いったい社としてのガヴァナンスはどうなっているんだと驚いていたと聞いた。ひどいときには、『週刊文春』で叩いている同じ月の『文藝春秋』でその人物を持ち上げるなんてこともある。文春的価値観からすると、批判はゲームのようなものかもしれない。

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3日間で売り切れた創刊号

「専門性」なきヴァラエティ雑誌

(3)の汎用性(非専門性)は文春の社是のようなもので、社員は同じセクションに長く止まらず、2年、3年周期で『文藝春秋』『週刊文春』『Number』『文學界』『オール讀物』『CREA』、文庫、単行本、営業、広告などのセクションを異動することになっている。私は『週刊文春』の「私の読書日記」をもう25年以上連載しているが、この間、いったい何人の編集者が担当になったかよく覚えていないほどだ。この頻繁な異動の結果、編集者に汎用性は生まれるが専門性はなかなか身につかない。こうした特質は、たとえば『芸術新潮』や『新潮』に配置されると十数年もそこに止まることが多い新潮社とはえらい違いである。新潮社には執筆者や著者よりもはるかに専門的な知識を有する偉い編集者がいて、そのまま大学教員になれそうな感じがするが、文春にはこうした専門に特化した編集者はあまりいない。

しかし、その反面、雑誌づくりということではこの「専門性のなさ」が大きなプラスとなる。というよりも、専門なきヴァラエティ性こそが文春の最大の特徴であるといってもいい。それは『文藝春秋』に匹敵するような「雑誌の中の雑誌」が他社にはないという事実一つをとっても明らかである。新潮社には『文學界』に対応する『新潮』はあっても、『文藝春秋』に相当する雑誌はない。『新潮45』は新潮社の『文藝春秋』たらんとしたものだが、結局、遠く及ばず、杉田水脈事件をきっかけに休刊になってしまった。講談社も『現代』を『文藝春秋』たらしめようとしたようだが、これまた牙城に迫ることなく敗退した。ひとことでいえば、だれにでも簡単につくれそうに見える『文藝春秋』は実際には文春以外にはつくれない難度の高いヴァラエティ雑誌なのだ。

このヴァラエティ性というものを支えているのが(4)の市民(ブルジョワ)性なのであるが、これを理解するには、カウンターとして新潮社ではなく、講談社をもってくるとよい。講談社は旧社名を大日本雄弁会講談社という。創業者の野間清治が東大の事務職員をしていたときに思いついた緑会弁論大会の速記録出版が原点だが、野間は「話されたものを活字」にするという商法を講談にも応用して、講談師たちの語りを速記して出版することを思いついた。大日本雄弁会講談社という旧社名はここから来ているのだが、その旧社名はインテリ性と泥臭い庶民性の奇妙な同居を意味してはいた。そして、この奇妙な同居は今日の講談社の社風とも関係しているのである。講談社には学術文庫だとか文芸文庫、選書メチエといったハードな学術系セクションがある一方、漫画という大衆的なセクションもある。当然、この両極端を結ぶ中間的セクションも豊富であり、両極端を含む総花性が現在の講談社の特徴である。

いっぽう、文春はというと、ハードな学術系セクションと大衆的なセクションの両方を欠いている。あるのは真ん中だけなのだ。

ところが、この真ん中的特質が講談社のそれとは著しい対比をなしているのである。講談社の真ん中は個々のものを足した「総和」の平均としての真ん中である。これに対し、文春のそれは、両極端を控除した後に残る真ん中性であり、その真ん中性、フランス語でいうところの「ジュスト・ミリュー」こそが文春の特徴なのである。

私はこの特徴を市民(ブルジョワ)性と呼びたいのである。そう、文春の社風の特徴の一つはこの市民(ブルジョワ)性なのである。

全員「重役出勤」する会社

ブルジョワの原義はブール(都市を囲む城壁)の内側に住む人ということだから、ブルジョワ的とは都市的であることを意味し、そのシノニム(類義語)は商業的(というよりも第3次産業的)で、アントニム(対義語)は農民的であるが、しかし、この言い換えには階級的な要素は含まれていない。つまり、ブルジョワ的であっても農民よりも生活水準は下という可能性もあるし、また逆のこともあるということなのだ。

この階級的要素なしのブルジョワ性が文春という会社の本質なのであり、それは菊池寛が『文藝春秋』を創刊したときから変わっていないのである。

最後の(5)の個人主義についていえば、これまた文春の伝統というほかない。

文春には本業に支障が及ばない限り、副業(たいていは文筆業)を認めるという原則がある。編集者の中にはペンネームで他誌に寄稿したり、自著を出版しているものがすくなからずいる。だから、担当の編集者がじつは私の同業者であったことを知って驚くことがしばしばある。元文春社員という物書きは出版業界ではかなりの数にのぼるはずだ。

この伝統は、『文藝春秋』が菊池寛の周辺にいた物書きとその志願者たちの同人誌としてスタートしたことから来ている。正業が物書きであり、出版・編集業務のほうが副業なのであった。

また、この特徴は、菊池寛が仕事は仕事、私生活は私生活と割り切ったこととも関係している。もっとも、この割り切りを完璧に行える社員は少ないから、ときに弊害が出る。それは文春社員は総じて出社が遅いということに現れている。いまはメールという手段があるからいいが、ファックスもないときには午前中に連絡を取ろうとすると、担当編集者がまだ出社していなくて閉口したものである。一般的常識からすると、文春の社員は全員「重役出勤」をしているように見える。

評伝・菊池寛をどう書くか

さて、以上、文春の社風についていろいろと書いてきたが、慧眼なる読者はすでにお察しのように、私が社風をいくつかの概念で括ってみせたのは、菊池寛の評伝をどのような角度から書けばいいのか、問題設定の仕方をあらかじめ開示しておきたかったからにほかならない。

すなわち、私は、(1)平等性・(2)楽天性・(3)汎用性(非専門性)・(4)市民(ブルジョワ)性・(5)個人主義といった文春の社風を菊池寛という人物の独特のパーソナリティから演繹したいと思っているのだが、その一方では、それではあまりに凡庸ではないかという反省の意識も働いているのだ。そんなことだったら、先行する菊池寛伝で検証済みではないか、というわけだ。

そこで、問題設定を次のように「ひねって」みることにした。(1)平等性・(2)楽天性・(3)汎用性(非専門性)・(4)市民(ブルジョワ)性・(5)個人主義という文春の社風から「遡行的」に菊池寛という希有な人間性に至り、その上で、彼が時代や社会と取り結んだ関係を分析するのである。

だが、なんでそんな面倒くさい方法が採用されなくてはならないのか?

またしても、集団の無意識という問題である。ヴァルター・ベンヤミンは『パサージュ論』の中でこんなことを言っている。

「19世紀とは、個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方はますます深い眠りに落ちてゆくような時代[Zeitraum](ないしは、時代が見る夢[Zeit-traum])である。(……)この集団はパサージュにおいておのれの内面に沈潜して行くのである」(『パサージュ論Ⅰ パリの原風景』今村仁司他訳 岩波書店)

わかりやすく言い換えると、19世紀という資本主義勃興期には、個人個人は覚醒していて活発に活動しているのだが、集団意識ないしは集団の無意識は深い眠りに落ち、夢を見ているということだ。ベンヤミンはこの集団の無意識が夢として顕在化するのがパサージュであると見抜いて、その分析に取り掛かったのである。

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「文春から見た菊池寛」を探る

私は、このベンヤミンのテクストの中の「19世紀」を「20世紀」に、また「パサージュ」を『文藝春秋』に置き換えてみたいのである。

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