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共助が支えた江戸|安藤優一郎

文・安藤優一郎(歴史家)

今から200年ほど前の享和2年(1802)3月、江戸の町でインフルエンザが大流行した。前年の暮に、オランダ船や中国船が唯一入港できた長崎から感染がはじまり、日本を縦断する格好で世界最大級の人口を抱える江戸にも感染が広がったのである。

それまでも江戸では麻疹などが流行して多数の犠牲者も出ていたが、当時の医療水準では有効な対策が取れず、幕府としても流行の自然収束を待つしか手立てがなかった。

そのうえ、疫病が流行すると経済がまわらなくなり、不況に陥ってしまうのは、いまと同じだ。

しかし享和2年、幕府はひとつの決断をくだす。生活困難に陥った庶民の生活を維持するため「臨時御救」を実施したのだ。江戸の町人人口(約50万人)の半数を越える28万8441人を対象に、独身者は銭300文、2人暮らし以上の家庭には1人当たり250文の割合で御救金が給付された。いまでいう定額給付金である。

ところが、このとき給付窓口となったのは、江戸の行政を預かる町奉行所ではなかった。そのうえ給付された資金も、幕府から拠出されたのではない。

給付の原資となったのは、それまで町人たちが積み立てていたお金で、給付窓口となったのは町人たちにより運営された町会所(まちかいしよ)という組織だった。給付対象を調査したのも、町人たる名主であった。

町会所とは、寛政改革の立役者として知られる老中松平定信が寛政4年(1792)閏2月に設置させた一種の互助機関である。定信は飢饉や災害のため食糧不足に陥った時に備え、前もって江戸の町人に一定の金額を積み立てさせ、それを町会所に預けさせた。いわば共済組合のようなシステムを作らせ、危機に備えさせたのである。

町会所では、その積立金を資本に米穀を買い入れて備蓄米とし、飢饉や火災・水災・震災時に食糧が不足すると、町人に対して御救米として給付した。感染症が流行して経済が回らなくなり、町人の生活が苦しくなった時は、米ではなく現金を給付した。食糧不足ではないので、その方が生活支援になると判断したのである。

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