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厚労官僚は心が折れた ワクチン行政の連戦連敗が大きなトラウマに 香取照幸(厚労省元局長)

ワクチン行政の連戦連敗が大きなトラウマに。/文・香取照幸(厚労省元局長)

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香取氏

入院を重症者に制限

8月初め、菅義偉総理は、「中等症患者の入院制限」を打ち出しました。重症患者や重症化リスクの高い患者以外の入院を制限し、医療ひっ迫を緩和しようとする狙いです。この方針は2日後には、批判を浴びて修正を余儀なくされましたが、決定に至るまでのプロセスを仄聞するに、日本のコロナ対策が抱える典型的な問題が、今回もまた起きてしまったと思わざるを得ませんでした。

唐突に打ち出された方針でしたが、医療ひっ迫の中で入院を重症者に制限するという判断自体は、止むを得ないものだったと思います。それでは何が間違っていたのか。

ことの発端は、東京都から厚労省へ出された要望だったそうです。入院患者の急増に直面し、「重症者用の病床確保のため、退院基準を見直して欲しい」「退院基準を各都道府県で柔軟に変更できるようにして欲しい」と要請があり、時を同じくして医療現場からも「このままだと病床がパンクする」という声が次々と挙がっていました。

そこで、厚労省の幹部たちは「東京都に退院基準を緩和する権限を与えたい」と総理に提案しました。

すると総理は「それなら全国でやればいい。入院の方も必要な人だけできるようにすればいい」という反応だったそうです。

私が聞いた話では、厚労省幹部は、「地域によって状況が違う。在宅療養をどうするかという問題もあるので慎重にやった方がいい」と進言したそうですが、官邸の判断は変わらず、あのような内容の総理会見になったのだそうです。

①菅義偉首相

菅義偉首相

コロナ対策の2つの問題

総理のこの判断は、国民の批判を浴びる結果となりました。

私は、厚労省側にも問題があったと思っています。入院制限や退院基準の見直しをやれば、当然それに対する不安の声が沸き起こることは予想されます。ですから入院制限だけを打ち出すのではなく、それと同時に、酸素吸入や抗体カクテル療法の在宅実施など在宅療養している患者への対策を、パッケージにして総理に上げるべきでした。

厚労省は、全国の医療関係者や自治体、医薬品メーカーとネットワークを持ち、その繋がりで情報を入手し、政策提案・実行することのできる、行政の実働部隊です。

入院制限を打ち出す前、現場からは在宅医療を拡充すべきとの指摘も上がっていたそうです。こうした情報を踏まえ、先を考えた対策の組み立てができるのは、厚労省を措いて他にない。酸素吸入装置や抗体薬の手配も、人に言われる前に厚労省が考え、提案しなければいけません。

他方で、官僚機構を使いこなすことのできなかった官邸サイドの問題も指摘できるように思います。

厚労省にかぎらず、官僚組織とは壮大な実働組織、マシーンです。官僚組織の動かし方がわかっていれば、危機にあっても、押すべきボタンを押し、動かすべき組織を動かして政策を遂行できるのです。

安倍政権でのコロナ対策を思い出してください。あの政権の中枢には、官僚組織を機動的に動かすことのできる人間がいませんでした。全国民へのマスク配布を担当した秘書官は、衛生材料の流通を所管する厚労省ではなく、自分の出身省(経産省)の課長に頼んでしまった。その結果、契約の不手際やオペレーションの混乱を引き起こすことになりました。

このように見てくると、日本のコロナ対策には、2つの問題があることがお分かりになると思います。それは官邸中枢の拙い危機管理と、所管省たる厚労省の準備不足という2つの側面です。この2つは分けて考えなければ、話は混乱してしまいます。まずは、厚労省の問題から指摘していきたいと思います。

②田村憲久厚労大臣

田村憲久厚労相

パンデミック対策は危機管理だ

最初に申し上げなければならないことは、パンデミックは健康の危機と同時に社会経済の危機でもある、パンデミック対策とは危機管理だ、ということです。危機管理だという前提で初めから取り組む。その認識がどこまで共有されていたのか。

まず、パンデミックが収まるまでどれくらいの時間がかかると考えるか。この想定は、危機管理上、極めて重要な基本認識のはずですが、厚労省は、この認識を総理や官邸と共有することができていなかったように見えます。

感染症との闘いは、病原体の毒性・感染力と人間の免疫・生命力との闘いです。対策の基本は、今も昔も、次の3つです。感染者の隔離、感染経路の遮断、そして近代になって人類が手にしたワクチンや治療薬という医学の力。前の2つは個人の行動制限、社会経済への大きな負荷になりますから、この問題は社会全体の危機管理になるのです。

我々は自身の免疫力と医学の力で闘い、病原体は変異して対抗します。蔓延の波を何度も繰り返し、最後にどこかで均衡し、終息を迎えます。いかに均衡点を低く抑えて終息させるか、それまでの間の社会経済の混乱・ダメージをいかにコントロールできるかが問題なのです。

歴史を振り返れば、この均衡点に到達するまで、2~3年の期間がかかることは明らかです。スペイン風邪の終息にも足掛け4年かかりました。短期間で決着をつけようとしても無理なのです。こうした感染症の性質を熟知しているのは医療を所管している厚労省ですから、この時間感覚は意思決定者である総理には、感染発生初期によくよく伝えておく必要がありました。

昨年夏のGoToキャンペーンは、国内の感染が判明してわずか半年余りの時期でしたから、医学の常識からすれば、ありえない政策でした。感染症の歴史を知っている厚労省の人間であれば、「必ずリバウンドするから止めた方がいい」と絶対に止めなくてはいけなかったのです。

総理の立場にあれば、緊急事態宣言をできるだけ避け、GoToキャンペーンのような経済対策に舵を切りたい思いを持つのは当然です。その判断は尊重すべきものですが、その判断の前提として、新興感染症との闘いは長期戦であること、その前提で社会経済の危機管理を行わなければならないことを、厚労省がどれだけ真剣に進言していたのかは問われます。そこは医療の専門家としての役割を十分に果たしてきたのか、疑問を感じざるを得ません。

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昨年夏のGoToキャンペーン

ワクチン敗戦の理由

そもそも厚労省は、新たな感染症の脅威に対して、警告を発して来た役所でした。SARSなど新興感染症の世界的流行や新型インフルエンザの国内大流行を受け、2010年、厚労省は専門家による「新型インフルエンザ対策総括会議」を開き、今後起こりうるパンデミックの危険性を指摘し、次のような提言を行いました。

全国の保健所・衛生研究所に危機管理の専門部署を設置すること、発生時点から情報収集するサーベイランスの強化・一元化を図ること、不足している感染症専門家を養成すること、国立感染症研究所を米CDC(疾病予防管理センター)のように一元的に感染症を管理する機関にすること、民間のワクチン開発支援や生産体制を強化すること……。

ところが、目前の脅威が過ぎてしまった後、この提言が徹底されることはありませんでした。結果、新たな感染症に対して、まったく準備が進まないまま、今日の事態に直面してしまったのです。

当時、この提言の取りまとめに関わった医系技官の多くが今、コロナ対策の最前線にいます。「あのとき俺たちが言ったのに」という思いを持っているはずです。国民と政治家の危機感が高まらなかったのは確かですが、提言を実行に移せなかったのは、厚労省自身の責任でもあります。

厚労省の問題としてもう一つ指摘されているのが、ワクチン開発の遅れ、そしてワクチン確保で出遅れたことでしょう。

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