観月_修正

小説 「観月 KANGETSU」#15 麻生幾

第15話

“オニマサ”(4)

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※本連載は第15話です。最初から読む方はこちら。

10月4日

別府国際大学

 数人の通勤、通学の乗客ともに、日豊本線の2両編成の始発電車から降り立った七海は冷たい空気をいっぱいに吸い込んだ。

 自宅を出た時から、予想もしていなかった肌寒さに、思わず、ひやっという声をあげた。

 いつもの10月初旬ならば寒風なんてまだ感じるはずもないわ、という先入観があったせいだった。

 午前6時42分と指している駅のホームの時計にチラッと目をやった七海は、ブラウスの上に羽織っているコートのボタンを慌てて閉めながら周囲へ視線を送った。

 そうしたのには訳があった。

 ストーカーの存在を確認しようとしたからだ。

 だが、不審に感じる者は誰も目に入らなかった。

 JR別府駅西口の改札を出てバスに乗り、がらんとした車内の空いている座席に座った七海は、昨夜、脳裡に浮かんだストーカーの存在について考えを巡らせた。

 でも、ずっと感じていた得体の知れない恐怖の正体と、一昨日襲われそうになったあの男がもし、自分が想像したそのストーカーであるのなら、どんな風に対処をしたらいいのか、朝起きてからずっと、そのことばかりを考えていた。

 かつてテレビで観たニュースで、ストーカーがつけ回す相手を殺害したという出来事もあった。もしそんなことになったら、防ぎようもないわ……。

 昨夜、全身を巡った、あの力強さが嘘のようになくなっているのを七海は自覚した。

 急に気分が落ち込んでゆく自分を見つめた。

 だからなのか、車窓から流れゆくいつもの景色が今日はどこか違って、グレーのフィルターを通して見ている感覚に襲われた。

 その感覚はバスを降りて大学の風景を見渡した時も同じで、幾つもの校舎群を囲む、赤味がかっているはずの紅葉(もみじ)の木々でさえ、その色彩が失われたような錯覚に陥った。

 5階建ての目指す校舎の前に辿り着いて七海は、強い気持ちを持つのよ、と自分に言い聞かせて大きく深呼吸した。

 エレベーターで3階に下りて、右の通路を進んで突き当たりの右側に、七海が勤める教室がある。

 教室のドアの前に立った七海は、バッグから鍵を取り出した。昨夜は一人での残業となり、最後に七海が施錠して帰宅したのだった。

 部屋に入り照明を点けてから、窓に近い自分のデスクに座った七海は、パソコンを急いで立ち上げると、昨夜に引き続いて、プレゼンテーション用のファイルに取りかかった。

 教室の面々が揃う時間までは、自分の好きなことができる。

 杵築駅午前6時18分の始発に乗ってきたのはそのためだった。

 やはりどうしても、自宅より教室で作業した方が能率が上がるからである。

 だから、大学のではなく、自分の仕事がある時は決まって、朝一番の始発に乗ってここ(教室)にやってくることにしていた。

 しかし、今日だけはいつもの雰囲気と違った。

 一人で仕事をしている、ただそれだけのことなのに、初めて不気味さを感じた。

 七海は、ひっきりなしに後ろを振り向くことになった。

 パワーポイントのスライド画像2枚分を作成し終えた時、七海はハッとしてそのことに気づいた。

 教授が来月の講演で使う写真ファイルに入れ忘れたものがあり、昨日の昼間、それを挿入して欲しい、と頼まれていたことを思い出したのだ。

――確か、それって、分析室にある写真アルバムの中に残ったままで、スキャンしてコンピュータに取り込んでいなかったわ……。

 立ち上がった七海は、隣室のガラス張りの分析室に足を向けた。

 背後で何かの気配を感じた。

 咄嗟に振り向いた七海の目に入ったのは、通路に出る教室のドアだった。

 数センチほど、ドアが開いている――。

――ちゃんと締め切ったはずなのに……。

 溜息をついた七海は、ちゃんとドアを閉めようと近づいた。

 突然、ドアの向こうで誰かが駆け出す音が聞こえた。  

 表情を一変させた七海は、恐る恐るドアをそっと開いた。

 黒っぽい服装の男が、廊下の先の角を曲がって行ったのが目に入った。

――あれって……まさか、あの人!?……。

 後ろ姿を一瞬、見ただけで、確証があるわけではなかった。

 でも、七海は間違いない、と思った。

(続く)
★第16話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。

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