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「トットちゃんの自由が丘」 門井慶喜「この東京のかたち」#15

★前回の記事はこちら。
※本連載は第15回です。最初から読む方はこちら。

 トットちゃんは問題児だった。小学校に入った早々、授業中にもかかわらず窓ぎわに立って外を見はじめたかと思うと、大きな声で、

「チンドン屋さーん」

 と通りへ呼びかけたりした。

 呼ばれたからにはチンドン屋は来る。わっと生徒たちが集まってしまう。まったく授業にならなかった。図画の時間には先生が、

「国旗を描いてごらんなさい」

 と言ったところ、日の丸でなく軍艦旗を描いたのはまあ目をつぶるにしても、その軍艦旗のまわりに黄色い房をつけだしたのは異常だった。黄色い房は画用紙をとびだして、机を盛大によごしたのである。

 トットちゃんは毎日のように廊下に立たされ、退学になった。ママはあちこち奔走し、ようやく、

 ――トモエ学園。

 という私立の小学校のあるのを見つけた。

 東急大井町線「自由ヶ丘」駅でおりて行ってみる。校長室に入る。小林宗作という名前の校長先生は、ママに、

「じゃ、ぼくは、これからトットちゃんと話がありますから、もう、お帰りくださってけっこうです」

 と言い、ふたりっきりになると、

「さあ、なんでも、先生に話してごらん。話したいこと、ぜんぶ」

 トットちゃんはそれから4時間もしゃべりつづけた。校長先生はあくびもせずに聞いてくれて、最後に、

「じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ」

  ご存じ『窓ぎわのトットちゃん』の冒頭の光景である。主人公のトットちゃんが著者の女優・黒柳徹子自身であることももはや国民的常識に属するだろう。これはおそらく昭和15年(1940)くらいのことと思われるので、小林宗作は40代後半だったはずである。上の小さな逸話だけでも、よほど強固な教育的信念をうかがわせる。

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 ただし厳密には、彼はトモエ学園を一から作ったのではない。もともとその場所にあった、べつの経営難の小学校を買い取ったのであり、そういう意味では2代目である。その「初代」こそ自由ヶ丘学園、あのトットちゃんが電車をおりた駅の名前の由来である小学校にほかならなかった(羽仁もと子の自由学園とは別)。

 自由ヶ丘学園の創立者は、手塚岸衛(きしえ)。

 男性である。明治13年(1880)栃木県塩谷郡大谷村に生まれ、福井県師範学校、京都府女子師範学校などで教鞭を執った。

 師範学校というのは小学校の先生の養成のための学校だから、いまならさしずめ地方大学の教育学部教授というところか。もっとも、この人は、あんまり風雲の志がありすぎた。早くから、

 ――自由教育。

 を標榜し、ジャーナリズムに進出したのである。

 この「自由教育」というスローガンに関しては、こんにち思想史的に見て、いろいろ解釈の余地があるようだが、実際の態度をひとことで言うと、

 ――小学校の先生は、子供の話を聞かなければならない。

 だったようである。

 などと言うと、読者には「そんなの当たり前だ」と言われそうだが、当時はちがった。

 むしろ急進的で非常識な態度だった。なぜなら維新直後の学制発布以来、「いい先生」というのは威圧感ある先生であり、生徒に口ごたえさせない先生であり、準備をしっかりした上でよどみなく一方的に知識をそそぎこむ先生である、というのが強固な社会の常識だったからである。

 教師というより上官に近いか。子供の話を聞くなどというのは単なる指導力の欠如であり、子供をなまいきにするだけの不誠実な対応にすぎぬ、というわけだ。手塚はその「不誠実」な思想をつらぬいたのである。

 時あたかも大正デモクラシーの勃興期である。新しい思想は、若い教師や一般市民の絶大な支持を得た。

 旧態依然たる教育現場を改革せよ。「自由教育」は一種の流行語になった。

 手塚自身も、どんどん有名になった。関係者のみの集まる会議での彼の発言が「東京日日新聞」や「大阪毎日新聞」にとりあげられたというから寵児である。

 手塚もさらなる手を打った。もっと世間の関心を引くべく、もっと人気を勝ち得るべく、以下のような「教育改造節(ぶし)」までこしらえたのである。1番から10番まであるけれども、ここではその特徴のよくうかがわれるものを抜き出そう。

一ツトセー 人の子害(そこな)う教育を先ず一番に打破れ。ソレ改造ダネー
四ツトセー 人の世醒めよ鶏がなく。個性個性と鶏がなく。ソレ改造ダネー
五ツトセー 猪の鼻台から鐘がなる。自我に醒めよと鐘がなる。ソレ改造ダネー
六ツトセー 無理をしないで伸び伸びと、児童本位の自由主義。ソレ改造ダネー

 銚子の民謡「大漁節」の替え歌というから、おそらく「アーコリャコリャ」などと合いの手が入るのだろう。「猪の鼻台」とは千葉市の地名。現在の表記は「亥鼻」。当時、手塚は、千葉師範学校附属小学校(現在の千葉大学教育学部附属小学校)の教師だったが、その職場の所在地を、あえて歌詞のなかにぶちこんだわけだ。

 よほど自信満々というか、戦闘的というか。少なくとも手塚が温厚柔和なジェントルマンでないことはこの一事からも明らかだろう。ところでこの「教育改造節」は、じつのところ、先行作品があったと私はにらんでいる。手塚の時代を3、40年さかのぼる、いわゆる自由民権運動である。

 自由民権運動とは、いうまでもない。板垣退助をはじめとする高知県士族を中心とした血気さかんな連中が、

 ――国会開設。
 ――憲法制定。

 などをもとめて東京政府にさかんに喧嘩を売った、あの一大騒動である。

 ひらたく言うと、日本ではじめて「自由」の二字を流行語にした運動。あれもまた新聞という最新のジャーナリズムを大いに利用したものだったが、その一環として、やはりおなじ銚子の「大漁節」の歌詞を変えて、「民権かぞえ歌」なるものをこしらえたのだ。

 作詞者は、植木枝盛と伝えられる。ここでは2番だけ抜こう。

一ツトセー 人の上には人ぞなき 権利にかわりがないからは コノ人じゃもの
三ツトセー 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノあわれさよ

 手塚岸衛の重視するのが子供の個性であり、板垣、植木のおもんじるのが人民の権利であるという差はあるものの、両者の態度は共通している。自分たちを「めざめた人」とし、社会の保守層を「目のさめない」愚昧な人であると規定して、その覚醒をうながすという一種の傲慢な態度である。

 ことば本来の意味での「啓蒙主義」といえようか。どちらにしても、こんにちの目にはまだまだ泥くささの残るこういう主張のあげくの果てに、手塚岸衛は昭和3年(1928)3月、満を持して自分の小学校を創立したのだ。

 すなわち自由ヶ丘学園である。理想の実現、正義の証明。しかしながら結論を言うと、彼はかなりの経営難に直面し……いや、その前に、地名について触れておこう。この学園の建った場所は、もともとは、東京府荏原(えばら)郡碑衾(ひぶすま)町と呼ばれていた。

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 この住所からもわかるとおり、東京市外である。おそらくは国木田独歩が「武蔵野」に描いたのとさほど変わらない、雑木林の多い土地だったのだろう。

 それが手塚の学園創立により、地名のほうが変わってしまった。流行語の後光かがやく「自由ヶ丘」(現在の表記は「自由が丘」)に……などと言うことができれば話は単純でいいのだが、実際には、それ以前から変わっていた可能性がある。これに関しては今回、私もいろいろ調べたのだが、資料によって述べるところが異なっていて、にわかに決しがたい。とにかくひとつ確実なのは、昭和4年(1929)、ということは学園創立の1年後に、東急が、最寄りの駅名を変更したということである。

 それまでの「九品仏(くほんぶつ)」を「自由ヶ丘」にしたのだ。これは明らかに学園の存在によるものである。この駅名変更により「自由ヶ丘」の名がきゅうに東京全体の市民の耳目になじんだであろうことを考えると、事実上、この地名は、手塚岸衛が生みの親としていいのではないか。けれどもその生みの親ですら、つまるところ学園本体の経営難をのがれることができなかったのは、しょせん彼が、

 ――理論家であって、実践家ではなかったからだ。

 などと大局的に決めつけるのは、やや酷なように思われる。

 いっときは小学校に加えて幼稚園、中学部をも併設するところまで行ったのである。だがその中学部の生徒ときたら、勉強はしない、喧嘩はする、カフェーには出入りする。

 カフェーというのは、女子従業員による接待をともなう飲食店である。酒も出した。当時の東京では公立校のほうが圧倒的に世間受けがよく、教育の質が上という社会通念があったから、私立校にはなかなか質のいい生徒があつまりにくい、という事情があったらしい。

 経営難は、深刻になった。職員の給与は遅配となり、地代は払えず、手塚はたびたび債権者から返済をきびしく催促された。

 ジャーナリズムの寵児も、お金の問題には勝てなかったのである。心身ともに疲労し、糖尿病をわずらい、昭和11年(1936)10月7日、死去。

 享年57。そもそもの学園のはじめからわずか8年目の死であることを考えると、これがなければ、ひょっとしたらもう少し長生きしたのではなどと思わざるを得ないわけだが、その手塚の死後、幼稚園と小学校を買い取り、「トモエ学園」と改名し、あらたに経営にのりだしたのがすなわち小林宗作にほかならなかった。

 そう。あのトットちゃんのおしゃべりに4時間も耳をかたむけた校長先生だ。小林宗作は、明治26年(1893)群馬県うまれ。

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小林宗作(『小林宗作抄伝』佐野和彦著、話の特集より)

手塚岸衛の13歳年下ということになる。小さいころから家の前の川のほとりで指揮棒をふって遊んでいたという音楽ずきで、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)師範科を卒業し、成蹊小学校の音楽教師をつとめ、2年間のヨーロッパ留学で最新のリトミック教育をまなんだあげく独立した。くりかえすが自由ヶ丘学園の幼稚園と小学校を買収したのである。

(なお同学園の中学校(旧制)は、いまもなお自由ヶ丘学園高等学校という名で存続している。その教育は「生徒が主体的に学ぶこと」を重視している由で、このあたり、あるいは手塚の意志の継承かもしれない。進学実績もいいようだ。戦前のごとき喧嘩だのカフェーだのいう学校でないことはもちろんである。)

 小林宗作の教育は、トモエ学園の教育はと言いかえてもいいが、いま見ても泥くささがまったくない。

 まことに垢ぬけしたものだった。またもや『窓ぎわのトットちゃん』からの引用になるが、トットちゃん=黒柳徹子は、伊豆へ臨海学校へ行くさい、この校長先生が、

「いいかい? 汽車にも船にも乗るよ。迷子にだけは、なるなよな。じゃ、出発だ!」

 とだけ言ったことを記しとどめている。いまの教師でも口をすっぱくして言わなければならない、

 ――ならんで歩くこと。

 とか、

 ――電車では静かに。

 とかいう注意はなかったという。

 記憶の誇張もあるのかもしれないが、小林宗作は、それだけ子供を信頼したのである。トットちゃんにはぴったりの学校だった。

 そこではもう、トットちゃんは授業中にチンドン屋に話しかけたりはしなかった。前の学校の先生が見たら、

「人ちがいですわ」

 と言うにちがいないくらい、それくらい自分の机にきちんと座って授業を聞いた。おそらく戦前の「自由教育」は、ここでひとつの完成を見たのである。大正デモクラシーの完成、と言いかえてもいいかもしれない。

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 日本語の「自由」という語も、ここで大きく変化した。

 板垣退助的、手塚岸衛的な泥くささから、小林宗作的なスマートさへ。意味の大型アップデート。してみると、トモエ学園そのものは空襲で焼けてしまったけれど、いまの自由が丘の「自由」な空気は、空気そのものが手塚岸衛と小林宗作の合作といえるのではないか。

 女子受けのするおしゃれなベーカリーや雑貨屋。カトレア通り、女神通り、しらかば通りなどの小径の名前。しんとした高級住宅街……現在は目黒区に属する。23区内ということは、戦前の感覚でいえば東京市内である。

(連載第15回)
★第16回を読む。

門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。

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