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佐藤優のベストセラーで読む日本の近現代史 『大河の一滴』五木寛之

手の温もりには言葉以上に伝える力がある

新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための緊急事態宣言を国は5月25日に全国的に解除した。さらに6月18日、安倍晋三首相は会見で都道府県の境を越えた移動に対する自粛要請を全面的に解除すると表明した。しかし、人々の生活がコロナ禍以前の状況に戻ることはないと思う。

〈新型コロナウイルスの感染を広げないため、国が示した「新しい生活様式」には、こと細かに具体例が示されている。だが先が見えぬ状況の中、「どこまで守ればいいのか」「すべて実践するのは大変」と感じる場面も多い。(略)/公共交通機関での会話は控えめに▽狭い部屋での長居は無用▽店での買いものは素早く――。(略)感染防止は必要だが、どこまで厳しく実践すべきなのかわかりにくい。/それは現状が「ダブルバインド」(二重拘束)に近い状態だからだと、行動経済学が専門の東北学院大の佐々木周作准教授は指摘する。(略)緊急事態宣言中はできるだけ家にいるよう求められてきたのが、今はリスクを抑えつつ経済活動も再開するよう求められており、正反対に思える要請に心の整理がついていない人が多いという〉(「朝日新聞」6月23日)

二重拘束の状況

二重拘束の状況では、人間の心理に過重な負担がかかる。その結果、誰もが程度の差はあれ心理的、身体的な疲れを覚える。こういう時は自分の内面を見つめることが重要だ。

『大河の一滴』は、五木寛之氏が人間の魂について掘り下げて考察した傑作だ。五木氏は、自らの宗教性を自覚せよと訴える。

〈目に見えない超現実の世界を想像することは、すでに宗教の根に無意識に触れていることだ。地獄を空想し、「この世の地獄だ」と感じたりするとき、じつは人はすでに宗教の世界に足を踏み入れていると言っていい。/私たち日本人のほとんどは、意外に思われるかもしれないが、常に宗教と背中あわせに生きているものなのである。夕日を見てなんともいえない不思議な気持ちになったり、深い森を不気味に感じて恐れたり、アスファルトの裂け目に芽ぶく雑草に感動したり、その場その場で私たちはおのずと目に見えない世界に触れるのである。/それを精霊崇拝(アニミズム)と呼び、なにか土俗的で前近代的な思考として低くみる立場を私はとらない。神と仏とをごっちゃに拝む日本人一般の原始的な習俗を、愚かしい神仏混合(シンクレチズム)として頭から嘲笑(ちようしよう)することも好きではない。宗教とは教義や組織によって成り立つものではない。人間の自然な感情から出発するものなのである〉

普段、我々は無意識のうちに拝金教、出世教という宗教を信じてしまっている。そこから距離を置いて、夕日、森、雑草などの目に見えるモノを通じて、その背後にある目に見えない世界を察知する努力をすることで、我々の生き方が変わってくる。コロナ禍で、大規模な不況が襲ってくることは間違いない。仕事も思うように進まず、会社員ならばリストラ、中小企業経営者ならば倒産の危機に直面する時もある。こうなると、価値観の変更を余儀なくされる。

〈物事(ものごと)がうまくいっているときは、あまり考えないものですが、ちょっと体調が悪かったり、仕事が思うようにいかなかったり、あるいは、身近のところで人間関係のトラブルがあったりするとき、ふと立ち止まって〈人間の命の価値はどこにあるのか〉と考えてしまいます。/最近、痛感しているのは、人間はただ生きているというだけですごいのだ――ということです。/私は人間の価値というものを、これまでのように、その人間が人と生まれて努力をしたりがんばったりしてどれだけのことを成し遂げたか――そういう足し算、引き算をして、その人間たちに成功した人生、ほどほどの一生、あるいは失敗した駄目な生涯、というふうに、区分けをすることに疑問をもつようになりました。/人間の一生というものはそれぞれが、かけがえのない一生なのであって、それに松とか竹とか梅とかランクを付けるのはまちがっているのではないか〉

評者がこの文章を読んだのは、鈴木宗男事件に連座し、512日間の東京拘置所独房での勾留を終えて、京浜東北線与野駅そばの母の許に身を寄せている2003年末のことだった。

近所の本屋で偶然、この本を手にとって、スターバックスでむさぼるように読んだ。それまで東京地方検察庁特別捜査部に逮捕、起訴された後、社会的に復権できた政治家や官僚はいなかった。評者は北方領土交渉に文字通り命懸けで取り組んでいただけで、違法行為をした覚えはない。しかし、鈴木宗男バッシングの嵐が吹き、メディアスクラムが組まれ、何を言っても聞いてもらえない現実もよくわかっていた。

五木氏の〈人間の一生というものはそれぞれが、かけがえのない一生なのであって、それに松とか竹とか梅とかランクを付けるのはまちがっているのではないか〉という言葉が評者の琴線に触れた。

そして、自分が経験したことを文章にして、外務省で評者を信頼して、最後までついてきてくれた若い同僚たちに残そうと思った。このとき書き始めたメモが、評者の処女作『国家の罠』(新潮社)に繋がっていったのである。

〈励まし〉と〈慰め〉

五木氏には、苦しんでいる人の気持ちがよく分かる。恐らく、五木氏自身が、文字にすることが出来ないような苦しみに遭遇したことが何度もあるからだと思う。もっともそのような苦しみを経験すると心を頑なに閉ざしてしまう人も多い。そうならなかったのは、五木氏の仏教信仰によるところが大きいと思う。五木氏は、励ましと慰めの違いを強調する。

〈人間の傷を癒す言葉には二つあります。ひとつは〈励まし〉であり、ひとつは〈慰め〉です。/人間はまだ立ちあがれる余力と気力があるときに励まされると、ふたたびつよく立ちあがることができる。/ところが、もう立ちあがれない、自分はもう駄目だと覚悟してしまった人間には、励ましの言葉など上滑りしてゆくだけです。〈がんばれ〉という言葉は戦中・戦後の言葉です。私たちはこの五十年間、ずっと「がんばれ、がんばれ」と言われつづけてきた。しかし、がんばれと言われれば言われるほどつらくなる状況もある〉

職場や学校で傷ついても、まだ立ち上がれる余力と気力がある場合がほとんどだ。その場合には、励ましは有効だ。しかし、仕事や学業、あるいは人間関係で深刻な壁に突き当たり、こんな苦しい状況が続くくらいならば、この世界から消えてしまいたいと思っている人にとって「がんばれ」という励ましは、傷に塩を塗り込むような行為になる。こういう人にとって必要とされるのが慰めだ。

〈そのときに大事なことはなにか。それは〈励まし〉ではなく〈慰め〉であり、もっといえば、慈悲の〈悲〉という言葉です。/〈悲〉はサンスクリットで〈カルナー〉といい、ため息、呻(うめ)き声のことです。他人の痛みが自分の痛みのように感じられるにもかかわらず、その人の痛みを自分の力でどうしても癒すことができない。その人になりかわることができない。そのことがつらくて、思わず体の底から「ああ――」という呻き声を発する。その呻き声がカルナーです。それを中国人は〈悲〉と訳しました。/なにも言わずに無言で涙をポロポロと流して、呻き声をあげる。なんの役に立つのかと思われそうですが、これが大きな役割を果たすような場合があるのです〉

慰めることができるのは、肉親や配偶者、恋人だけではない。

東京拘置所から保釈されたのが2003年10月で、『国家の罠』を上梓したのが5年3月なので、その間の約1年半、評者は人との接触をほとんど断っていた。例外的にロシア語通訳で、エッセイスト、小説家として活躍していた米原万里さん(1950〜2006)の自宅を何度か往訪した。

五木氏は、〈孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。熱伝導の法則ではないけれど、手の温(ぬく)もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散(かくさん)していくこともある〉と記す。

保釈になって初めて鎌倉の米原邸を訪れたとき、万里さんは黙って評者の手を握った。手の温もりとともに米原さんの想いが伝わってきた。しばらく沈黙した後で米原さんは「あなたの経験を本にしたらいい。職業作家になったらいいわ。応援する」と言った。この言葉が評者の魂に深く突き刺さった。

その後、米原さんはがんと闘病することになった。見舞で米原邸を訪れた。応接間のソファで評者は米原さんの手を十分くらい無言で握り続けた。手の温もりには言葉以上に人の気持ちを伝えることが出来る力がある。

(2020年8月号掲載)

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