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出口治明の歴史解説! もし徳川幕府が「鎖国」をしていなかったら

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※本連載は第41回です。最初から読む方はこちら。

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年8月のテーマは、「日本と世界」です。

【質問1】江戸時代は鎖国政策のせいで、日本史上で最悪レベルのひどい時代だったと、たびたび話されていますね。もし鎖国がなかったらどうなっていたでしょうか?

ポルトガルの南蛮船を入港禁止にしたのが1639年。幕末に日米和親条約が締結されたのが1854年。一般に、この215年間が日本の鎖国時代といわれています。近年では、長崎の出島や琉球、蝦夷、対馬などで交易をおこなっていたので(四つの口)、鎖国はなかったという説も出ています。しかし、自由な交易や人々の海外との行き来を禁止していたわけですから、国を閉ざしていたことには間違いありません。

何よりも「鎖国」という言葉を使うべきではないと主張している人々の大半が、「開国」は使っていいといっているわけですから「何をかいわんや」です。

愚かな鎖国の間に、フランスではネーションステート(国民国家)が誕生し、連合王国(イギリス)では産業革命が起こりました。世界を劇的に変えた人類の二大イノベーションに乗り遅れた日本は、明治維新後になって、やっと近代化を進めてキャッチアップに苦慮することになります。

もし日本が江戸時代の初めに鎖国しなかったら……あまりに影響が大きすぎて想像できませんね。

大勢の日本人が海を渡って外国に出ていったことだけは間違いがないでしょう。江戸初期には、戦争という仕事のなくなった武士が、大勢海外にでていきました。山田長政(1590頃〜1630)がシャム(現在のタイ)の日本人町の頭領になったように、世界各地で日本人が活躍したのではないでしょうか。日本人はもともと海外に出るのが好きな人々だからです。内向きになったのは、長い鎖国の影響とみて間違いないでしょう

この連載の第32回で、中華料理が世界中で食べられるのは、大英帝国が中国から大量の労働者を植民地に運んだからだと解説しました。もし鎖国がなければ、その華僑に代わって日本人が世界中に“和僑”の町をつくっていたかもしれません。

そして、自由に交易ができれば、様々な外国人が日本を訪れたことでしょう。江戸や大阪が国際都市になったとしてもおかしくありません。

織田信長(1534〜1582)がアフリカ出身の弥助を武士の身分に取り立てたように、外国人の武士が出てきたかもしれません。大相撲を見れば、マゲを結った外国人の姿も想像しやすいですね。


【質問2】以前の講義で「モンゴル帝国はダイバーシティが進んでいたから外国人が閣僚に登用されることもあった」と説明されていました。日本でも外国人が活躍することはあったのでしょうか?

日本でも、昔から外国人は活躍してきましたよ。優秀な人材と認められて、重要な仕事を任された外国人はたくさんいます。

古代の日本では、朝鮮半島や大陸から来た渡来人が大きな役割を果たしました。代表的なのは、南淵請安(みなぶちのしょうあん、生没年不詳)です。渡来系の氏族の出身のお坊さんで、当時の日本では圧倒的な知識人でした。彼は608年に遣隋使の小野妹子に留学僧として同行し、640年に帰国しています。その32年間に、現地で隋から唐への王朝交代(618)を目の当たりにしました。

請安は、帰国後は儒教などの最新の学問を教えますが、これが歴史を変える「学校」になりました。645年に「乙巳の変」(昔は大化の改新として教えられていました)を起こす中大兄皇子(天智天皇、626〜672)と中臣鎌足(614〜669)は彼の元に通っていたのです(ただし、乙巳の変については、孝徳天皇が中心人物だったという有力説があります)。この「学校」は、幕末でいえば、木戸孝允(1833~1877)や高杉晋作(1839~1867)、伊藤博文(1841~1909)を輩出した吉田松陰の松下村塾のようなものです(ただし、最近では松下村塾の役割を疑問視する有力説があります)。

鎌倉時代(1185頃〜1333)には、臨済宗の京都五山(南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)や鎌倉五山に、南宋のお坊さんたちがきていました。当時のお寺は今でいうとシンクタンクのような機関です。人材も知識も情報も集まってきます。そして、政権も彼らのアドバイスを重視しました。

モンゴル戦争(元寇)の前に、日本がクビライの国書を無視したのは、南宋出身のお坊さんが「あの連中は野蛮だから相手にせんほうがええで」とアドバイスしたことも理由の1つになりました。母国がモンゴル帝国と戦争中の国のアドバイザーが鎌倉幕府の近くにいたことは重要です。次の室町幕府もお坊さんがブレーンでした。

江戸幕府を開いた徳川家康は、金地院崇伝や天海などのお坊さんに加えて、ウイリアム・アダムス(三浦按針、1564~1620)や東京駅の八重洲口の語源にもなったヤン・ヨーステン(1556?~1623)などイングランドやネーデルランド出身者を外交顧問に登用しました。

明治時代には、お雇い外国人がたくさんいたことは有名ですよね。札幌農学校(現在の北海道大学)のウィリアム・クラーク博士(1826〜1886)が代表です。ほかにも日本各地で、外国人の先生が近代的な西洋の知識や技術を日本人に伝えました。『怪談』のラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850〜1904)、鹿鳴館やニコライ堂を設計した英国の建築家ジョサイア・コンドル(1852〜1920)のように、日本が好きになって長く住んだ人もいます。

日本は昔から外国人を招き、活躍してもらうのは得意です。記憶に新しいところでは、「ラグビー・ワールドカップ2019」があります。日本代表チームは、メンバー31人のうち15人が外国出身でした。ヘッドコーチも入れたら32人中16人が外国出身、主将のリーチマイケル(ニュージーランド出身)もそうです。
彼ら日本代表チームの戦いを、みんなが熱狂的に応援しました。

外国出身者でも、優秀な人材はきちんとリスペクトして登用してきたのが日本の歴史です。外国人のようなバックグラウンドが異なる人材を混ぜたほうが組織は強くなります。ダイバーシティの効用です。

いまや、優秀な人材は世界中で取り合いになっています。

2020年の夏、連合王国(UK、イギリス)のボリス・ジョンソン首相が「香港の約300万の市民にUKの市民権をあげるで」と発表しました。一部のメディアが「トランプ大統領の強硬な反中国政府の姿勢に同調した」と報道していたのでビックリしました。このメッセージは、それもありますが、主眼はおそらく優秀な人材をゲットするためのものです。

1997年6月まで100年近くUK領だった香港には、英語が流暢で、UKの社会システムがわかっている人たちがたくさんいます。また香港はアジアの金融センターですから、その分野の世界トップクラスの人材もごまんといます。OECDが各国の15歳を対象に実施する学習到達度調査(PISA)でも、香港はいつも国際ランキングの上位。アジアの大学トップ10のうち3校が香港にあります。要するに香港はむちゃ教育水準が高いということです。香港には、世界中の国が喉から手が出るほど欲しい人材があふれているのです。

中国が香港国家安全維持法を施行し、一国二制度が事実上崩れたことで、香港脱出を考える優秀な人材が生まれたことでしょう。ジョンソン首相の発表は、彼らに向かって「香港の若いエリートのみなさん、優秀な学生のみなさん、ロンドンで一緒に働きませんか?」という呼びかけに他なりません。

これは、日本にとってもビッグチャンスです。この講義の第3回で説明したように、東京は魅力的な大都市でありながら、これまでは香港とシンガポールに完敗していて、アジアのハブにはなれませんでした。いまこそ、「香港のみなさん、同じアジアの日本に来ませんか?」と香港の優秀な人材を招くチャンスだと考えるべきです。

(連載第41回)
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■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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