
【70-文化】政治・経済に侵食される「文化」のゆくえ|若林恵
文・若林恵(黒鳥社コンテンツディレクター)
政治的言説はご法度
かつて隆盛を誇り、ハリウッド映画はもとより、世界の音楽シーンのメインストリームに位置するヒップホップやブラックカルチャーにも多大な影響を与えた香港映画は、中国資本による長年の切り崩しによってほぼ崩壊の憂き目にあっていると聞く。中国の巨大マーケットに深く入り込み、そこに背を向けることが困難になればなるほど香港の文化産業は中国政府に首根っこを押さえられていく。ジャッキー・チェンはある時期から「北京の狗(いぬ)」と揶揄されるようになった。かつて香港の誇りであったはずのスターたちが次から次へと中国政府に「転ぶ」ことで、かつて香港のアイデンティティをかたちづくってきた文化が、民主化を求める市民の「敵」となってしまったことの痛みを、東京大学博士課程に在籍する銭俊華は『香港と日本 記憶・表象・アイデンティティ』のなかでこう記している。
「こうした芸能人の『裏切り』で、多くの香港人の心は離れていく。その結果、社会にとってただ娯楽が少なくなるのみならず、かつての記憶も感情も奪われ、過去の信仰がすべて嘘になってしまう。このような芸能界に見られた香港社会の亀裂は、社会全体の反映でもある」
言われてみれば、香港の民主化運動は学生活動家が取り上げられるばかりで、文学者や音楽家などの「文化人」は驚くほど影が薄い(「アップル・デイリー」のジミー・ライくらいだろうか)。2019年の初頭、香港でヒップホップアーティストを取材する機会があったが、彼らが口にしたのはほとんど愚痴だった。曰く「音楽産業は死んでる」「若者は就職で頭がいっぱいで音楽なんか聴かない」「中国本土のリスナーの方が熱心に聴いてくれる」等々。
日本で人気の香港の女性学生活動家は、日本の女性アイドルグループが好きであることを公言しているが、ラッパーたちのこうしたことばと照らし合わせてみれば、ジャンヌダルクの異名を取る彼女こそ「音楽なんか聴かない若者」の代表であるようにも見えてくる。彼女が何を聴こうが咎める筋合いもないが、香港のラッパーたちの愚痴を思うにつけ、民主化の是非の奥にある文化をめぐる挫折には、より深い虚しさが伴うことが見てとれる。