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元警察庁幹部が見た「天安門の夜」 中国共産党の「野望と病理」|南隆

中国共産党の戦略は、民主派を殲滅した「あの夜」からまったく変わっていない。/文・南隆(コンサルティング会社代表・元内閣官房審議官兼内閣情報調査室審議官)

何が彼らを駆り立てるのか? 

香港問題を契機に、中国による人権弾圧の象徴的事件として、32年前に発生した天安門事件の映像が最近よく放映される。当時現場を目撃した者としては、人生で最もアドレナリンが上昇した時期の興奮が嫌でも思い出される。

今でも不思議な光景が目に浮かぶ。天安門広場制圧後も北京飯店前で果敢にシュプレヒコールを上げる抗議者に対し、横一線に整列した兵士が時間をおいて発砲する。すると蜘蛛の子を散らすように全員が逃げるが、前方にいた運の悪い数人は撃たれて倒れる。その血だらけになった被害者を仲間がリヤカーで救出し、また立ち向かうという場面が幾度となく繰り返された。近くの病院には多くの遺体が安置された。

火炎瓶すら持たない丸腰で撃たれることがわかっているのに、何がそこまで彼らを駆り立てるのか? デモ隊の後方で成り行きを観察していた私は理解に苦しんだ。自然災害が発生するたびに「命を大切にする行動を!」との絶叫アナウンスに慣らされている日本人には到底理解できない世界である。

私は1978年に警察庁に入庁し、主に警備公安畑を歩んだが、中国とは縁もゆかりもなかった。しかし、1989年3月に北京の日本大使館に出向し、天安門事件に巻き込まれたことが影響したのか、その後は中国との関わりが深い人生となってしまった。

同年4月15日の胡耀邦元総書記の死去に伴い発生した中国の民主化要求運動は、日に日に盛り上がり、壮観であった。5月上旬には100万人デモとの見出しが紙面に躍ったが、正確な数は誰もわからない。私は長安街の分離帯の上に立ち、参加人員の概数を算出しようとしたことがあるが、いつになってもデモ隊の後尾が見えないのであきらめた。桁違いの人口の怖さを実感した。

この時期、デモに参加しないとまずいという気持ちが市民に芽生え、大使館の中国人スタッフまでデモに参加した。中国人は機を見るに敏な人々である。文化大革命の最中、誰もが毛沢東語録を振りかざしたのも同じ感性だったのだろうと想像した。

しかし、5月20日に戒厳令が発令されると、付和雷同者は潮が引くように消え、天安門広場には数千人だけが残った。最終局面を感じた5月末日夜の広場は不気味であった。わきに設置された簡易トイレを消毒した匂いが辺りに立ちこめる中、戒厳令布告をアナウンスする無機質な女性の声が一晩中流れ、私服の公安要員が多数目についた。

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香港のデモ鎮圧部隊

「革命前夜」が一変した夜

天安門事件とは、6月3日夜から4日にかけての戦車まで投入して民主化運動を粉砕した武力弾圧をいう。が、壮大なドラマはその前日の2日深夜から始まる。

私は北京飯店前で、その幕開けとなる、市民と人民解放軍兵士数1千人が衝突する現場にいた。兵士たちはシャツの上に水筒と雑嚢をかけただけの軽装であり、指揮官も見えなかった。しばらく両者は対峙していたが、到着した米国プレスのクルーがカメラを回したところに公安要員がとびかかり、小競り合いが始まり、一気に乱闘に発展した。

奇妙なことに市民側が勝利し、散り散りとなった兵士たちを市民が追い回すという異様な光景が展開された。3日午前3時頃、天安門広場を挟んで反対側に位置する西単では、軍用バスが市民にブロックされていた。若者達は、兵士から奪った拘束器具を戦利品のように振りかざし、気勢を上げていた。正に「革命前夜」の様相であった。

同日昼には多数の市民が再度広場に集結し、束の間の夢に浸った。

しかし、ドラマの第2章はその夕刻に始まる。兵士を乗せたトラックが近郊から次々と進出。これを阻止しようとする市民が路上で必死に説得に当たった。

夜半になり情勢は激変する。各地で銃声がとどろき、装甲車まで続々長安街中心部に進出、よくテレビで放映される場面であるが、バリケードを張ったデモ隊にも突入し、瞬く間に広場を包囲、制圧した。しかし、午前3時ころになっても、北京飯店前ではなおも冒頭のようなシーンが繰り広げられていた。

私は、流れ弾の風を耳元に感じるようになり、拠点のある北京飯店に退避した。何とか塀をよじ登って正門玄関から入ったところ、一瞬にして10人ほどの公安要員に取り囲まれた。身分証明書を提示し、彼らが発する質問を拒否したが、「戒厳令はすべてに優先する」とがなり立てられ、ウィーン条約違反だという私の主張など全く聞き入れられなかった。

公安要員とのやりとりを20分ほどで終えた私は部屋に戻り、その後は、長安街を猛烈なスピードで進軍する戦車や装甲車の動きを、良き同僚であった笠原直樹防衛駐在官とベランダから観察した。明け方、天安門広場からは火の手が上がったが、様子は見えなかった。最後まで籠城していた学生たちは、戒厳部隊に銃口を向けられる中で、撤収を余儀なくされたと後から聞いた。

20080418BN00091 天安門広場

天安門広場

中国制裁に反対した日本政府

このドラマの第1章は、民主化要求運動を「動乱」と断じた中国共産党が、最終的に「反革命」と規定するための謀略であったとするのが大方の説である。第2章では、中国共産党を脅かす勢力に対し、完膚なきまでに粉砕する決意を示した。予想される西側諸国の非難などは眼中にない。今でもこのシナリオを書いた者は誰だったのだろうかと思うほど見事な脚本であり、中国の権謀術数の歴史を垣間見た思いであった。

戒厳令下、中国当局は潜伏する活動家の摘発を続けた。著名な活動家は欧米諸国の支援を受け、海外へ脱出した。知り合いの西側外交官で、自宅にしばらく活動家を匿った者もいた。日本人のある知り合いは、当局に顔の利く中国人から「処刑を見学に行かないか」と誘われたが、気味が悪く辞退したと語った。当時ニューズウィーク誌の表紙には河川敷で銃殺される労働者の写真が使われた。日本大使館では、「男気を出すな。塀を乗り越えて逃げ込もうとする中国人がいれば、追い返せ」と領事部長が館員を叱咤したが、何ともわが国らしい対応であった。

私は事件後、公安部外事局のカウンターパートに度々連絡を取ろうとしたが、誰も電話に出なかった。2か月ほど経過して、彼らはようやく姿を現し、食事の誘いを受けた。「わが国は大変な風波に見舞われた」といった、いつになく暗い挨拶で始まったように記憶する。出席者の幹部は、当日の私の行動を承知しているらしく、酔いが回ると、「戒厳令下、あのようなところに行ってはダメですよ」と笑って私を諭した。

昨年12月、外務省は天安門事件当時の外交文書を公開した。それによると、当時わが国は翌7月のアルシュサミットに向け、天安門事件での人権弾圧に対して制裁を科そうとするG7の動きの中にあって、中国を孤立させるべきではないとして制裁に反対していた。さらに当時の中国課長は中国政府の西側諸国向け「中国政府声明案」の作成まで請け負っていた由である。制裁の効果はないとの分析は多分正しかったが、30年後の現在、「戦狼外交」を象徴する外交部報道官らの自信満々でふてぶてしい応答ぶりをテレビで見るにつけ、全身の力が抜け落ちる。

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「転向」した民主派戦士たち

天安門事件発生後30年間、中国に民主化運動の嵐が再び吹き荒れることはなかった。民主化を要求して立ち上がったあの学生たちはどこへ行ったのだろうか?

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