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産業革命を経て、パックス・ブリタニカの時代が訪れる/野口悠紀雄


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※本連載は第32回です。最初から読む方はこちら。


 18世紀後半の産業革命によって、イギリスは世界の工場としての地位を獲得し、アジアの支配を進めて行きます。イギリスの経済発展を可能とした大きな原因は、自由な経済活動が認められたことです。

◆産業革命はなぜイギリスで起きたのか


 18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、技術革新による産業・経済・社会の大変革です。最初は紡績機、そして蒸気機関が発明される、という過程は、学校の歴史の時間で勉強したとおりです。
 これによって手工業生産から工場制生産への変革が起こり、分業と大工場による大量生産が可能となりました。

 産業革命は、19世紀前半にはヨーロッパ各国に広がりました。

 産業革命が、人類の歴史の大転換であったことは間違いありません。

 これを巡ってさまざまな議論が行なわれてきましたし、いまでも行なわれています。

 長く議論されているテーマとして、「産業革命がなぜイギリスで起きたのか」という問題があります。

 フランスやドイツなどもイギリスと似た条件にあったにもかかわらず、なぜそうした国ではなく、イギリスで産業革命が起きたのか?という問題です。

 これについては、つぎのような考えがあります。

(1)オランダに代って海上覇権を握るようになり、アジアとの交易で経済的に豊かになり、巨額の富を蓄積していた。

(2)古くからあった毛織物業の発達に加え、それまではインド産であった 綿織物 を国内で生産するようになった。

(3)農業革命によって農業の生産性が上昇し、エンクロージャー(囲い込み)によって大量の失地農が生まれ、大量の労働力が都市に流れ込んでいた。

 しかし、これらの中でどれがもっとも重要な要因だったのかということになると、いつになっても、決定的な答えが得られません。

 これは、「ローマ帝国がなぜ滅びたのか?」と同じような事情です。これについては、「学者の数だけの異なる説明がある」と言われます。

◆インドを植民地化、世界の工場へ

 イギリスは、1850~70年代には、「世界の工場」と呼ばれるほどの生産力を実現しました。

 1850年において、石炭生産高でドイツやアメリカの約8倍、フランスの12倍。銑鉄生産高ではアメリカの4倍、ドイツの9倍、フランスの5倍以上。総輸出額は1850年からの20年間で3倍になり、銑鉄の輸出は7倍、機械輸出は10倍になりました。

 イギリスは、アジアとオセアニアの広大な地域に進出し、支配を広げていきます。

 1840年には、中国との間でアヘン戦争を起こし、これに勝利して中国を支配していくようになりました。これは、本連載ですでに述べたとおりです。

 イギリスは、1800年代の初めごろからインドに進出していました。それに対する反乱が1857年に起きましたが、イギリスは武力でこれを平定。そして、インドの支配を強め、インドを直接の支配下に置き、植民地化しました。

 ところで、インドの植民地経営は、イギリスの経済にとってプラスに働いたのでしょうか? イギリスは、植民地経営によって富を蓄積したのでしょうか? 歴史の教科書では、そうだと説明されています。

 インド支配は、イギリスにとってアメリカ独立による打撃を乗り越える力となっただけでなく、飛躍的な経済発展をもたらしたというのです。
 

 しかし、植民地経営が経済的に割にあうものだったか否かは、疑問です。
 
 これについては、さまざまな議論があります。経済史家の間では、植民地経営に要するさまざまな費用を考えれば、インドの植民地化は、イギリス経済にはプラスではなく、むしろ負担になったという見方が強いようです。

◆なぜ中国で産業革命が起きなかったのか?

 上で、「なぜイギリスで産業革命が起きたのか?」という問題について述べました。

 それと同じく重要な問題は、「なぜ中国で産業革命が起きなかったのか?」ということです。

 日本も中国と同じように鎖国をしていたのですが、世界情勢が大きく変化してきたことを察知し、明治維新に向けて、幕藩体制が大きく変わります(もっとも、それは、アヘン戦争における中国の敗北という大事件を目の前に突きつけられたからではありますが)。

 それに対して、中国は変わろうとしませんでした。この連載の第23回「アヘン戦争で中国の凋落が決定的になる」で述べたように、1792年、自由貿易を求めてきたイギリス大使ジョージ・マカートニーに対して、三跪九叩頭の礼をするよう要求して追い返してしまうという有様だったのです。 

 こうした中国の中華思想が、中国を世界情勢の変化に鈍感にさせたのは事実です。

 ただし、中華思想だけではなく、もっと根本的な理由があると思います。

 それは、前回も述べたように、中国は、新しい可能性に挑戦する社会ではなかったことです。

 中国は官僚制に支えられた中央集権的大帝国です。そこには、ヨーロッパにあったような商人たちの自由な活動はありませんでした。

 ですから、明の時代にも、やろうと思えば太平洋を横断できるほどの航海技術を持ちながら、それを実行しなかったのです。

 ヨーロッパの大航海の費用を賄ったのは、王室ではなく、裕福な商人たちです。そして、彼らの出資を容易にするために、株式会社という制度が作られました。

 ヨーロッパのこのような社会制度が、大航海を可能にし、その後のアジア進出を可能にしたのです。

 ところが、中国には、株式会社という社会制度ができませんでした。官僚国家では、そうした制度はできようがなかったのです。

(なお、産業革命当時のイギリスでは、1720年に「南海バブル事件」という株式市場のバブルが生じて、その反省から株式会社が禁止されていました。ただし、産業革命の初期の事業はあまり大規模なものではなく、個人事業でも資金調達できる規模のものであったために、株式会社の役割はあまり大きくなく、これがイギリス経済の発展に大きな妨げになることはありませんでした)。

 ヨーロッパで作られた株式会社のような社会制度は、一種の技術であると考えることができます。ただし、羅針盤、火薬、造船などの技術とは異質のものです。通常の意味での技術を「ハードな技術」と呼ぶことにすれば、それは「ソフトな技術」ということができるものです。

 この概念を用いれば、「中国にはハードな技術はあったが(そして、16世紀頃までは、その面で世界最先端であったが)、ソフトな技術はなかった」ということになります。

 それに対して、ヨーロッパでは、ソフトな技術によって活動範囲を広げ、そしてついに産業革命において、ハードな技術においても、世界をリードするようになった、ということができます。

◆イギリスのビジネスモデルは海賊から自由貿易へ

 ソフトな技術は、株式会社だけではありません。自由な経済活動を認めることも、重要なポイントです。

 産業革命当時のイギリスでは、1846年の穀物法廃止などに見られるように、産業資本家の勢力が伸張し、自由貿易体制が整えられました。この間の事情は、つぎのとおりです。

 ナポレオン戦争時のイギリスでは、大陸からの小麦輸入を禁止していました。農業関係者と地主たちは、輸入禁止によって利益を得ていたので、戦争終結後も輸入禁止を継続しようと政府に働きかけ、1815年に「穀物法」(Corn Laws)を立法させました。

 しかし、これでは食料費が割高になって、産業の発展が阻害されます。このため、産業資本家が反対運動を展開しました。経済学者のリカードは、比較生産費の理論を考え出して、反穀物条例運動を理論的にバックアップしたのです。

 これは、自由貿易の基礎理論です。貿易を行なうことによって、輸入国も輸出国も豊かになることを、この理論が保障しています。

 海洋国家イングランドのビジネスモデルは、海賊の略奪や奴隷貿易でした。しかし、いつまでもそうしたことばかりをやっていたのではありません。イギリスがその後も繁栄を続けられたのは、自由貿易のためです。

 こうしたものを普通は技術とは言いませんが、経済に与える影響からすれは、ハードな技術と同じように重要なものです。

◆可能性が広がる時、国全体が活性化する

 ナポレオン戦争終結(1815年)から第1次大戦勃発(1914年)までの約1世紀は、イギリスの黄金時代でした。これは、ビクトリア女王の治世(1837年~1901年)とほぼ重なります。

 通貨制度の面から見ると、この時代は、イギリスを中心とした金本位制の時代です。

 1833年に、イングランド銀行が発行する銀行券が法定通貨とされました。そして、44年に発券銀行としての独占権が与えられました。

 金本位制を確立したイギリスは、全世界の経済をリードしました。

 19世紀後半には、ロンドンのシティが世界金融の中心地になり、ポンド体制が国際金本位制として確立しました。イングランド銀行は「世界の銀行」としての役割を担うこととなったのです。ヨーロッパ各国が次々とイギリスに追随して金本位制を採用しました。
 19世紀末には、国際金本位制がグローバルな国際通貨システムとなりました。

 パックス・ブリタニカ(イギリスの平和。あるいは、イギリスの覇権の下の平和)が確立されたのです。
 もともとはスペインに対して言われた「日の沈むところのない帝国」は、イギリスのことになりました。

 ところで、ビクトリア時代は、経済的に見てイギリスの黄金期であるばかりでなく、美術や文学などの芸術・文化面でも、イギリスの黄金期、爛熟期でした。

 これは、ちょうど、大航海時代の初期に、ポルトガルが絶頂期を迎え、社会全体が活性化したのと似ています。

「インド植民地化は、イギリス経済にとってむしろ重荷であった可能性が強い」と上で述べました。

 ただし、これは、植民地化によって直接得られる経済的利益と、植民地経営に必要な費用を比較したものです。

 こうしたこと以外に、インド植民地化によって、多くのイギリス人に新しいフロンティアが提供されたという事実があります。

 そうした可能性があるとき、多くの人が可能性を求めてさまざまな活動をし、社会は活性化します。

 ある国が他の国をリープフロッグして世界の最先端に立つときは、経済の一部だけが活性化するのではなく、国全体が沸き立つような興奮状態に包まれるもののようです。ある面での躍進が別の面での進歩を引き起こしていくのです。

(連載第32回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。

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