文藝春秋digital記事TOP亀井氏

令和の開拓者たち・亀井隆平(シリウス代表取締役社長)

時代を切り拓く“異能”の人びとの物語を、新進気鋭のライターたちが描く連載ノンフィクション。今回の主人公は、シリウス代表取締役社長・亀井隆平氏です。/文・大西康之(ジャーナリスト)

「三洋魂を復活させる」──脱サラした男の逆転人生

 平成の時代は、日本の電機産業にとって「失われた30年」だった。海外の原発事業で大失敗した東芝は、白物家電事業を中国の美的集団(マイデイア)に売却。液晶パネルの過大投資で資金繰りに窮したシャープは台湾の鴻海(ホンハイ)に買収され、東芝のパソコン事業はシャープの傘下に入った。三洋電機も解体され、白物家電は中国の海爾(ハイアール)、半導体は米国のオン・セミコンダクターに買収された。

 業界再編の嵐の中で何十万人のサラリーマンが、外国資本の下で働くことを余儀なくされ、あるいはリストラで慣れ親しんできた職場を追われた。そして「路頭に迷う」という言葉がよく使われるように、会社を放り出されたサラリーマンの行く末は哀れなものと思われがちだ。

 だが、会社を去った人々の「その後」を丹念に追っていくと、全く違う光景が見えてくる――。

 クラウドファンディングをご存知だろうか。資金集めが難しいベンチャー企業がインターネット上で新しい製品やサービスの企画を公開する。企画を気に入った人に数千円から数万円の小口出資をしてもらい、目標額が集まらなければ返金、集まれば事業は継続。出資者は見返りに、完成品やサービスを格安で受け取ることができる。

 その代表格「Makuake(幕開け)」で驚異的なスピードで目標資金を集めたプロジェクトがある。

 元三洋電機社員の亀井隆平が経営する「シリウス」が企画・開発した「スティック型コードレスクリーナー・switle(スイトル)」だ。9月1日に募集を始めるとわずか3時間で目標金額の50万円を突破。2週間で目標の7倍弱、336万円が集まった。これだけの実績があれば、銀行も融資に応じてくれるという。

スイトル シリウス提供

世界初の水洗いクリーナー「スイトル」

 この掃除機、何が凄いかというと、場所を取らないスティック型で重さ2,027グラムと抜群に軽いのだ。しかもその吸引力は本格的なキャニスター型と同等。それを中国で生産し1万9,800円で販売する。

 テレビショッピングみたいになってきたが、スイトルの吸い込み仕事率は100ワットで、日本でも大人気、英ダイソンのスティック型コードレスと同等。ダイソンは3万2,000円だから、コストに敏感なネット・ユーザーが反応するのも無理はない。

 三洋電機を辞め、「スイトル」を生み出した亀井。この物語の主人公だ。

亀井氏 写真_トリム済み

ハマコーの秘書だった

 今年55歳になった亀井は身長180センチ、体重100キロの偉丈夫。国士舘大学柔道部、三洋電機柔道部で鳴らした柔道6段の猛者だ。三洋電機時代は渉外担当として、社長だった創業家の井植敏雅や会長の野中ともよの下で働いたこともある。

 亀井の父は国士舘専門学校の15期生。戦前は青森県の中学で教員をしており、満州に出征した後、戦後は北海道警察で柔道の名誉師範をしていた。亀井も父親と同じ国士舘に進み、大学3年生の時、ロサンゼルス5輪で重量級の金メダリストになった斉藤仁の付き人になる。

「自分の人生で最も影響を受けた人ですね。3年生、4年生、卒業してからも斉藤先生の付き人をやり、栄枯盛衰の全部を見ました。初めて全日本で優勝した時、『富士山に登った』と喜んでおられたのを覚えています。付き人として多くの政治家や著名人にも会った。色んな意味で度胸がついたと思いますね」

 大学を卒業後、柔道を続けるため警視庁に入るつもりだった亀井。ところが明治大学の柔道部にいた知り合いに明大教授で評論家の栗本慎一郎を紹介され、その伝手で今度は衆議院議員の浜田幸一に出会う。

「知り合いが勧めるんですよ。浜田先生の秘書になると月に30万円とか50万円もらえるって。警察官の月給は11万円とか12万円ですから。そんなに給料もらえるんなら、と浜田先生の議員宿舎に行ったら『うーん、面構えが気に入った』と即採用。後で聞いたら先生は『今度、うちの事務所に警察官の息子が入った』と触れて回っていたらしいです」

 2年ほど亀井はハマコーの秘書を務めたが、亀井の顔を見ると浜田はいつもニコっと笑い、怒鳴ったり、怒ったりしたことは1度もない。清濁併せ吞むタイプで、トラブルも多かったハマコーは用心棒代りに「警官の息子」をそばに置いたのである。

 金メダリストの付き人とハマコーの秘書。柔道のおかげで世の中の裏側を垣間見た亀井だったが、虚々実々の政治の世界は自分に向かないと考え、浜田事務所を辞める。栃木県の足利で古紙回収の家業を継いでいた国士舘体育学部の同級生の元に転がり込んだ。背広姿で国会に通っていた亀井は、作業着で工場に出る。夜は時間があったので、地元の道場で2年ぶりに柔道を始めた。

 隣の群馬県には三洋電機の創業者、井植歳男が関東進出のために設立した東京三洋電機があった。その三洋電機柔道部の監督、越塚輝雄が「足利に国士舘出の猛者がいる」と噂を聞きつけ、亀井に会いに来た。

「あんた、まだ若いのにこんなところで何をくすぶっているのか。うちで柔道やらんか」

 誘われた亀井は柔道選手として三洋電機に入社した。1989年7月のことである。柔道7段の越塚に鍛えられた亀井は才能を開花させ、全日本選手権の無差別級でベスト8という活躍も見せる。群馬県の国体選手にもなったが、30歳の時、足の怪我で引退を余儀なくされた。

上司からハサミが

 亀井のサラリーマン人生が始まるのはここからだ。

「営業を1から勉強しました」

 振り出しは北海道営業本部(札幌市)。30歳で営業デビューした亀井は電気店の女社長に「あんた、製品のこと何にも知らないじゃない」とコテンパンにやっつけられ、会社でしょげていると「向こうは食ってくために必死なんだ。そのくらい当たり前だ」と上司からハサミが飛んでくる。一国一城のオーナーや荒っぽい上司との真剣勝負が亀井を鍛えた。

 当時の三洋電機は“なにわのジャック・ウェルチ”と呼ばれた創業者の長男、井植敏がトップに君臨。まだ珍しかったコードレス電話の「テ・ブ・ラ・コードるす」や、持ち運びできる細身のラジカセ「U4」など目新しい商品でヒットを飛ばしていた。

 しかし新人の亀井が担当したのは売れ筋のAV機器ではなく、エアコンなどの空調機器だった。涼しい北海道でエアコンを売るのは北極で冷蔵庫を売るようなもの。当時、北海道のエアコン普及率は8〜9%程度に止まっており、他社は「望み薄」と見て営業に力を入れない。

 エアコンの生産拠点だった群馬で働いた経験のある亀井は、三洋電機サービスという施工の子会社と組んで量販店やホームセンターに取り付け工事のやり方を教えた。やがて「日立(製作所)とかはエアコンを売るだけだけど、三洋は工事までやってくれる」と評判になり、大いにシェアを伸ばした。

 その後、東京の営業、大阪本社で営業企画、マーケティング部と経験を重ねていく。

 だがその頃、三洋電機の業績は徐々に陰りが出てきた。最大の要因は“なにわのウェルチ”井植敏による、身の丈を超えた投資だ。それまでの白物家電やAV機器に比べて格段に投資規模の大きい半導体や液晶パネルなどの巨額投資に邁進。負債は膨らみ、財務体質が脆弱になっていく。そこを襲ったのが、2004年10月の新潟県中越地震だ。新潟三洋電子の半導体工場は壊滅的な打撃を受け、その年の決算は約700億円の赤字に転落してしまう。

 05年、敏は起死回生をかけ、息子の井植敏雅を社長に、サポート役としてジャーナリストで金融知識も豊富な野中ともよを会長に就任させる。2人は「Think Gaia(シンク・ガイア)」のコンセプトで、傷ついた三洋電機を「環境・エナジー先進メーカー」に再生しようと試みた。

野中ともよ会長に直訴

 そんなある日、太陽光発電パネルで世界の先頭を走っていた三洋に外務省から依頼が来る。カンボジアへのODAに関連し、首相のフン・センと旧知で、外相などを歴任した武藤嘉文が現地を訪れる。そこに同行して太陽電池のプレゼンテーションをしてほしいという内容だった。

 ところが業績悪化で“縮み志向”に陥っていた三洋電機の渉外部は「今はそれどころではない」と、この話を断ろうとした。

「日本の大臣経験者が、一国のトップと会う時に、お手伝いをしろ、と言われているわけですよ。一介のメーカーが断われる話じゃない。当時、僕は課長でしたが、これはマズいと思って会長の野中さんに電話したんです。そしたら、野中さんは『あなたの言っていることは正しい』と言ってくれて、経営企画の本部長だった本間充副社長から『アジア・オセアニア担当の役員と一緒に行ってこい』と許可をもらいました」

野中ともよ 共同

野中ともよ会長(当時)

 亀井はフン・センの前で三洋電機の太陽光発電システム「HIT」の仕組みを説明した。フン・センは亀井の話を興味深そうに聞いたが、最後にこう言った。

「日本のODAで最先端の太陽光発電をやってくれるのはありがたい。しかし本当にカンボジアが困っているのは、たとえば田舎の保健センター。夜中の停電で急病人の手術ができなかったり、お産の治療ができずに死産になったりしている。そういうところを援助してほしい」

 フン・センに言われて、市街地の保健センターを視察に行った亀井はまるで野戦病院のような現場を見て愕然とする。病院には「SANYO」のロゴが入った最新式の血液保冷庫があったが使われておらず、血液や薬は隣の古い冷蔵庫に入っていた。「なんで新しい方を使わないのか」と尋ねると、「最新式は停電すると中のものがすぐにダメになるが、旧式は霜が残るのでしばらく冷やせる」という答えが返ってきた。

渉外部に引っ張られたが……

 この一件がきっかけで、亀井は経営企画本部の渉外部に引っ張られる。野中と敏雅は海外での環境関連の事業に活路を見出そうとしており、亀井はカンボジア、モンゴルなどアジアを飛び回った。

 だが、そうしている間にも三洋電機の財務状況はどんどん悪化していき、05年12月、ついに第3者割当増資でゴールドマン・サックス、大和証券SMBC、三井住友銀行の金融3社から3000億円の出資を受けることになる。出資した3社はそれぞれが三洋電機に役員を送り込み、経営に直接関与するようになった。

 野中と敏雅は「シンク・ガイア」の路線で1,000回充電できる2次電池「エネループ」を生み出していた。水を使わず洗濯物をオゾンで洗うエアウォッシュ機能を持つ洗濯機も話題を呼んだ。だが、大株主の金融3社は、「シンク・ガイア」路線に反対。亀井の上司になった大和証券出身の専務も、電機メーカーの仕事を全く理解しておらず、現場が提案するプロジェクトを潰すことだけが生きがいのように見えた。

 社員の中には、社内権力の風向きを見て金融3社出身の役員になびく者も現れた。ある商品の販売戦略を決める会議でマーケティングの担当者が大和証券出身専務の前で「専務の仰せの通りにいたします」と言った時、亀井はゾッとした。

 この頃の三洋電機をジャーナリスト出身の野中はこう表現している。

「Organizing the deckchairs on the Titanic」

 沈みゆくタイタニック号の甲板でデッキチェアを並べる人たち、という意味だ。ワールドワイドで10万人の社員を抱える巨艦、三洋電機は船倉に穴が空き、ゆっくりと沈んでいたが、それに気づかぬ乗組員たちは、甲板の上で一生懸命、椅子を並べていた。亀井もこう振り返る。

「まさか潰れるとまでは思っていなかった」

「最後の抵抗、意地だった」

 社内の権力闘争に敗れた野中は、3期連続赤字の責任を取って07年3月に辞任。敏雅も社長を辞任し、金融3社が推した人事担当役員の佐野精一郎が新社長に就任する。

 亀井は、佐野が全国の社員が参加する年に1度の大運動会の後、大阪の帝国ホテルで開いた打ち上げパーティーで行ったスピーチが今でも忘れられない。佐野はこう言った。

「人事部長から社長になれた私は非常にツイてるが、社員の皆さんもツイてる。私は三洋電機を残すし、社員は1人も切らない」

 社員は大いに盛り上がったが、実際にはその後、多くの社員がリストラされ、三洋電機は枝葉を切り落とした状態でパナソニックに買収された。パナソニックが欲しかったのは三洋電機の電池事業だけだった。亀井が野中や敏雅の下で、生き残りをかけて開拓しようとした環境関連事業は、パナソニックへの売却を目論んでいた金融3社にすれば「余計な仕事」。会社を売りやすい形にするため、牛歩戦術で三洋電機の新規事業を足止めしたのだ。その3社に全面的に協力した佐野が三洋電機が買収された後、自分だけパナソニックの専務に収まった。

 野中と敏雅が退陣し、後ろ盾を失った亀井の元に、ヘッドハンティングの話が舞い込んだ。「小型の風力発電を手がけるベンチャーの専務にならないか」という。環境ビジネスに目覚めていた亀井は、その誘いに応じた。副社長の本間など三洋電機の経営陣も快く転職を認めてくれた。

 こうして10年5月、亀井は21年勤めた三洋電機を去った。ことごとく金融3社に潰された「環境・エナジー先進メーカー」を三洋電機の外で続ける。それは亀井にとって「最後の抵抗であり、意地だった」。

 ところがいざ転職してみると、風力ベンチャーの経営が実はボロボロで、給料も満足に払えない状況であることが判明。結局、亀井はわずか1年でこの会社を去ることになる。バラ色の未来を信じて転職したサラリーマンが転落する典型的なコースだが、亀井の場合、ここから鮮やかな逆転人生が始まるのだ。

三洋魂を復活させた商品

 まずは除菌水の取次を細々と手掛けていた妻の会社に転がり込んだ。亀井と同じ国士舘で女子柔道部の強化選手だった妻の理(さとり)は、もともと保健体育の教師。退職後は、海外留学も経験したバイタリティに富む女性だ。この会社が後に商号を変え、現在の「シリウス」となる。

 最初に始めたのは、LEDランプの販売。三洋電機は親会社になったパナソニックと違う規格のLEDランプを作っていたため、買収された後は売るに売れなくなり、子会社の鳥取三洋が在庫で8万本も抱えていた。それを「亀ちゃん、これ売って商売せぇ」と仲間が卸してくれた。

 亀井は三洋時代と柔道の人脈をフル活用し、トヨタ自動車やNECの子会社などにLEDランプを売りさばいた。すると今度は三洋電機の方が「在庫を処分したいから、残った6万本を買い取って欲しい」と言ってきた。当時、LEDランプの卸値は1本2,000円。締めて1億2,000万円だ。売れば2億円にはなるが、亀井にそんな資金があるはずもない。

「金がないから無理だ」と亀井が言うと、在庫処分を急いでいた三洋は「いくらなら買う」と聞いてきた。亀井が思い切り足元を見て「1本100円」と言ってみると、その値段でもいいと言う。コカ・コーラより安い1本100円で仕入れたLEDランプを2,000円で売り、大儲けをした。

 次に手がけたのが空間清浄機。かつて三洋電機は「ウイルスウォッシャー」という名前の空間清浄機を販売していた。除菌水に浸したフィルターをくぐらせることで空気中のウイルスなどを取り除く除菌フィルター透過方式の清浄機だ。亀井は三洋時代、営業のサブリーダーとしてこの製品の販売に関わった。「空間清浄」というキャッチフレーズも亀井たちが考え出したものだ。しかし買収された後、パナソニックの「ナノイー」とバッティングするため生産・販売が打ち切られてしまう。

 だが、ウイルスウォッシャーの金型を買い取った会社に元三洋電機の社員がいた。亀井はその男に頼み込んでウイルスウォッシャーを復活させ、「J-BOY」という名前でシリウスから発売したのだ。

「お米でパンが焼ける『ゴパン』もそうですが、三洋電機には他社にはなくて、お客さんに喜んでもらえる製品がたくさんあった。パナソニックに買収された後、そうした製品のほとんどは野ざらしにされた。悔しいですよ。自分たちが精魂込めて作った製品を1つでも復活させて、三洋魂を残したかったんです」

 13年に発売したJ-BOYは老人介護施設や病院で高い評価を受け、累計1万台を売った。

「いけますよ、これ!」

 こうしてシリウスの経営が軌道に乗り始めた頃、元三洋電機の役員で、発明家が集まる日本市場創造学会設立準備研究会の理事をしていた竹内創成が連絡を寄こした。

「亀ちゃん、福山に面白い発明家がいるんだが、1度会ってみないか」

ここから先は、有料コンテンツになります。記事1本ごと100〜200円で購入するよりも、月額900円で70本以上の記事が配信される定期購読マガジン「文藝春秋digital<シェアしたくなる教養メディア>」の方がお得です。今後、定期購読していただいた方限定のイベントなども予定しています。

★2019年12月号(11月配信)記事の目次はこちら

この続きをみるには

この続き: 2,863文字 / 画像1枚

令和の開拓者たち・亀井隆平(シリウス代表取締役社長)

文藝春秋digital

200円

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

サポートありがとうございます。もっともっと面白く、クオリティが高いコンテンツを作っていけるよう、頑張ります。

ありがとうございます!
6
シェアしたくなる教養メディア。100年近くの歴史がある総合月刊誌「文藝春秋」が、あなたの人生を豊かに彩るコンテンツを毎日お届けします。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。