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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#3

第一章
Once Upon A Time In SHIMOKITAZAWA

★前回の話はこちら。
※本連載は第3回です。最初から読む方はこちら。

(3)

 4半世紀前と「今」の最大の違い。それは、誰も彼もが「知らないものや人、場所のことを、本当に知らなかった」ということに尽きるだろう。

 今は「対して知らないし、興味もない」情報に望まざるとも感情が包まれやすい。ほとんどの論争やトラブルが、その食い違いから生み出されているような気がしてならない。だからといって「過去の方が現在よりも素晴らしい」などというノスタルジアに陥るつもりは毛頭ないが。

 インターネットを一般人が自由自在に駆使するようになったのは、90年代半ば以降のことだ。それとて原始的なホームページや掲示板に限られ、速度も遅かった。スマートフォン、グーグル・マップ、LINEはもちろん、メールですら全員が使っていたわけではない。1995年初頭の世界でPCに精通してない学生が誰かと連絡をとるには固定電話か、留守番電話にメッセージを残すしかなかった。音楽サークルに所属している僕などは、数十秒の留守番電話のメッセージに自分の曲を歌ったり、ホラー・テイストのBGMにシリアスなナレーションをつけてみたり色々工夫して楽しんでいたが、そのすべてが恥ずかしい想い出だ。

 女子高生の間ではポケットベルは存在し流行していたようだが、少なくとも僕の周りでは数人がバイト先から嫌々もたされている程度。どこにいたって呼び出され縛られているなんて可哀想だな、と思っていた。

 1995年春の時点で携帯電話を持っている大学生、若者はほとんどいなかった。2年ほどの間に状況は急速に変わるのだが。

 情報源はテレビやラジオ、新聞、雑誌。そして何より身近な友人から、直接得たものばかり。だからこそ、「その場にいる」ことが何より重要だった。

 大学生であれば、サークルのラウンジや部室。僕がそれまで入っていた音楽サークル「トラベリング・ライト」の場合、大隈講堂の向かいに存在した第2学生会館というビルの1階が溜まり場。四六時中そこにたむろしていた。しかし、そうでもしなければ仲間とのコミュニケーションは生まれ得なかった。

 そんな時代に、Twitter、Instagramのようなメディアとして機能していたのが「ラウンジ・ノート」。そこには例えば「どこどこの喫茶店に誰々と一緒に何時までいるから来て」とか、「地下のスタジオ INAFUJI でセッションしてるから来い!」などと手書きで記されている。ちょっとしたギャグや、「写ルンです」で撮った写真が貼られていたり、バンド・メンバーに向けてスタジオでの練習のスケジュールや、絵などが描かれていることもあった。牧歌的なものだ。

 1995年と言えば、時代的には「渋谷系」全盛、いや、歴史を振り返った基準でみれば、それぞれのバンドやアーティスト達が独立した道を歩き、すでに狂騒的なブームには陰りが出てきた時期だと見なされているのかもしれない。しかし、僕は東京に暮らしていながら、その頃まで同時代の日本の音楽文化の動きを何も知らなかった。

 僕が心酔していたのは、マーヴィン・ゲイや、スティーヴィー・ワンダー、ザ・テンプテーションズなどの1960年代からのモータウン・レジェンド。そして、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジェイムズ・ブラウン、シックや、クインシー・ジョーンズがプロデュースしていた時期のブラザーズ・ジョンソン。大学に入ってから、周囲の影響で染みるように好きになっていったスティーリー・ダン。

 同時代のアーティストであれば、夢中だったのが何と言ってもジャミロクワイ。1995年3月17日に生ジェイ・ケイを「目撃」した恵比寿ガーデンホールでの「ザ・リターン・オブ・ザ・スペース・カウボーイ・ツアー」の衝撃は忘れられない。ジェイ・ケイを真似して大きなニット帽を被った僕は、ステージ前列ど真ん中に陣取って踊った。

 音楽の奇跡を弾み響く低音に集約したかのようなスチュワート・ゼンダーのベース。そしてキーボードに、究極の天才トビー・スミス。あの時期の「バンド」、ジャミロクワイは最強だった。あまりにも突出したメディア露出と、そのカリスマ性ゆえにジェイ・ケイ個人の名前が「ジャミロクワイ」なのでは? との勘違いも多く生んだ。しかし、90年代のジャミロクワイは、断じてフロントマン、ジェイ・ケイのソロ・ワークスではなかった。

 忘れられないのが、ロンドンのクラブ・シーンから大爆発したトーキン・ラウド・レーベルのアーティスト達だ。特に好きだったのが、オマーの〈ナッシング・ライク・ディス〉。1992年8月、大学生になった初めての夏休みにパリに留学したのだが、その時に「ジャケ買い」してハマったヤング・ディサイプルズのファーストには、脳天を撃ち抜かれた。

 なんと言っても〈ムーヴ・オン〉のイントロのドラムの「生」感覚とサンプリング・フィール。80年代のポップ・ミュージックを支配したフェアライト、シンクラヴィアなどによる人口的でメタリックなシンセサイザー・サウンドは過去の遺物となっていた。

 スマートフォンやSNSがないから、一人の時間にすることと言えば一心不乱に音楽を聴いたり、本を読んだり、ビデオを観たり。特に18歳の夏、故郷の京都からも、ようやく慣れ始めた東京からも離れ、一人きりフランスで聴いたアシッド・ジャズは心を踊らせ、身体に寂しく沁みた。

 そして、レニー・クラヴィッツと、彼がプロデュースした若く美しきガールフレンドのヴァネッサ・パラディ。レニーのライヴにはこの時期毎年足繁く通ったが、特に1994年「ザ・ユニヴァーサル・ラヴ・ツアー」の終演後、ドラマ「あすなろ白書」で俳優としてスターダムを駆け上っている最中のSMAP木村拓哉さんが、武道館の喫煙所で全身をEVISUのデニムで固め一人タバコを吸っていた姿は、強烈な当時の時代の空気感として胸に刻まれている。

 いわゆる「洋楽オタク」として成長してきた僕にとって、唯一の例外がジャニーズ音楽、特に1985年12月に長い下積みの末にデビューした超本格派・少年隊だった。洋の東西を問わず、オールタイム・フェイバリット・グループに彼らを今でも掲げる僕だが、90年代、同じジャニーズ事務所から登場したSMAPも、冒険心に満ちたシングルをリリースするごとに大好きになっていた。飾らないストリート感覚を纏った彼らこそ、90年代日本の変化の象徴だった。

 最も覚えているのが、1995年1月20日金曜日、夜8時。テレビ朝日『ミュージックステーション』の生放送での出来事だ。SMAPはその3日前に日本を襲った阪神淡路大震災の衝撃を受けて、リリースされたばかりの最新シングル〈たぶんオーライ〉を〈がんばりましょう〉に急遽差し替えて歌った。歌唱前にグループ最年長で当時それぞれ22歳の木村拓哉さん、中居正広さんが順にアップになり、被災者への実直なメッセージを添えた。今でこそ普通の対処のように感じるが、当時「アイドル」が臨機応変な姿勢を見せ自分の言葉で災害時に語りかけるのは珍しいことだった。まさにその瞬間、上り調子のサイクルに入っていたSMAPが日本芸能界の頂点に立った。

 もちろん、80年代からサヴァイヴしてきたU2、プリンス、マイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、マドンナやジョージ・マイケルも変わらずに四六時中、浴びていた。

 新世代のTLCや、ブラックストリート、ベック、どこまでも澄んだ宝石のようなアイズレー・ブラザーズのカヴァー〈At Your Best (You Are Love)〉で胸を鷲掴みにしたアリーヤ。そして、もちろんビートルズ。レーザーディスク・ショップのバイト仲間のベーシスト、斎藤健介君が教えてくれたスモール・フェイセス。レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、デヴィッド・ボウイ、初期のトッド・ラングレン。ボビー・ブラウンやベル・ビヴ・デヴォーなど、ニュー・エディション一派も一時の勢いは落としてはいたが、自分はずっと好きで聴き続けていた。ニルヴァーナや、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ブラーは友達のバンドがコピーしているヴァージョンを繰り返し聴いて、そちらを先に覚えてしまったタイプのバンドだ。

 僕は高田馬場、早稲田、新宿、および中野、高円寺など中央線沿いの中古レコード屋、古本屋巡りを繰り返すだけに時間と情熱を費やしていた。それでも僕には十分過ぎるほど、宇宙のようにだだっ広い街「東京」が抱く音楽や文学の歴史、蓄積は無限で果てしなく、優しかった。

 上京からの3年の間。渋谷という街にほぼほぼ縁がなかった。下北沢も同じだった。街や居場所で完全に世界が分断されていた。

 だからこそ、向かう場所を変えるだけで「未来」は完全に変えられた。そう、たった一夜で。いとも簡単に……。

(続く)

★今回の1曲――Jamiroquai - Space Cowboy (1994)

(連載第3回)
★第4回を読む。

■西寺郷太(にしでら・ごうた) 1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)など。
現在NHK-FMで放送中の「ディスカバー・マイケル」に案内役としてレギュラー出演。


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