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なぜ渋谷は繁華街になったのか 門井慶喜「この東京のかたち」#21

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※本連載は第21回です。最初から読む方はこちら。

 渋谷というところは、江戸時代には郊外の別荘地だった。大名や旗本が下屋敷を持ち、広大な庭を持ち、地形を生かして築山や池をこしらえた。

 ほかには寺と田畑くらいしかなかった。まったくのんびりとした土地柄だったけれど、そのおもむきは近代に入っても、明治、大正までつづいた。それを昭和に入ってから、たったひとりの男が、 

 ――むりやり。

 と形容したくなるような剛腕でもって一変させてしまったのである。渋谷はたちまち商都となり、こんにち見るような生き馬の目を抜く街となった。

 その男の名は、五島慶太(ごとうけいた)。東京急行電鉄(以下「東急」)の実質的な創業者である。株の買い占めで周囲の弱小鉄道会社はもちろんのこと、バスや、百貨店や、その他のいろいろの会社をわがものとし、東急グループを一代で急成長させたことから、姓をもじって、

 ――強盗慶太。

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 と呼ばれた。グループどころか戦前は、

 ――東急コンツェルン。

 などと呼ばれたということは、新興ながら三井、三菱、住友などの財閥に比せられ得ると見られていたのだ。

 生まれは、田舎も田舎だった。

 長野県小県(ちいさがた)郡青木村殿戸(とのど)という山にかこまれた小さな集落。明治14年(1881)の記録では戸数66、人口275人、馬7頭がそこに所属していたが、慶太はその翌年に生まれたのだから、子供のときにはもう村人全員の顔をおぼえたにちがいない。こういう土地の住民がしばしばそうであるように、慶太の両親もまた、ことさら神仏を信じること篤かった。

 朝晩かならず仏壇の前で「南無妙法蓮華経」をとなえた。慶太ももちろんやっただろう。そのいっぽうで、慶太はたいそう頭がよかった。松本中学を卒業後、ふるさと青木村で小学校の代用教員をつとめたというだけでも田舎出の青年としては最高の知的出世であるが、しかしこの青年は、それで満足するには頭がよすぎた。あるいは自尊心がありすぎた。

 上京して高等商業学校を受験したが英語で失敗して不合格。1年後、こんどは東京高等師範学校(英文科)を受けて合格。いまで言うなら、一橋を落っこちて筑波に受かったというところである。

 4年後、卒業。ただちに三重県四日市市の市立商業学校に英語教師として赴任したのは、おそらく誰かに紹介されたのだろうが、

 赴任してみると、校長はじめ同僚がいかにも低調で、バカに見えて、とうていともに仕事をしていくに足りない者ばかりだった。そこで、これではいかん、一つ最高学府の大学を出て、世の中と勝負してみてやろう、こう決心して……

 と、これは日本経済新聞で現在もつづく名物連載「私の履歴書」での慶太自身の回想である。「低調」ということばの使いかたがおもしろい。慶太はそれから、ほんとうに四日市の仕事をやめてしまい、再上京して、東京帝国大学法科大学に合格。これはもちろん、こんにちの東大法学部である。このとき慶太は25歳だった。

 ずいぶん粘り強いともいえるし、ずいぶん廻り道をしたともいえる。同級生はみんな年下だったろう。実際、4年後に卒業したとき、同期には、

 重光葵(外交官)
 芦田均(政治家)
 石坂泰三(財界人)
 正力松太郎(「読売新聞」経営者)

 などといったような錚々たる面々がいたけれど、みんな4つも5つも若いのである。この年ごろでは大きな差だろう。慶太のあの豊かすぎる自尊心に、このことは、何かしら深刻な影響をあたえないはずはなかった。

 卒業後、慶太は官僚になった。

 はじめ農商務省に入り、すぐに鉄道院へ移ったのは、これもやはり誰かの紹介だったらしい。言いかえるなら、慶太は、みずから望んで鉄道界にとびこんだわけではなかった。

 当時のごくごく一般的なことばで言うなら「縁」でしかなかった。7年つとめて監督局総務課長になったところで鉄道院をやめたのもひょっとしたら自分の意志ではなく、早期退職勧告、いわゆる「肩たたき」に遭ったのかもしれない。何しろ入職が遅いから薹(とう)が立っているし、そのくせ自尊心がありすぎる。

 まだ課長心得だったころ、稟議書に決裁のハンコを押すときには慶太はいちいち「心得」の二文字を線で消して上司へまわしていたという。

 ――俺は、こんな待遇には満足しない。

 という意思をありありと示したわけだ。

 こういう人間にあんまり課長の座にがんばられては後進の出世のさまたげになる。官界に顕著な排除の論理。とにかく慶太は鉄道院をやめた。このとき38歳だった。若いようだが、当時の感覚では老人の一歩半手前である。

 ふつうなら、

 ――あとは、余生。

 くらいの感じだろうか。その余生のあずけ先は、武蔵電気鉄道という鉄道会社だった。待遇は常務。つまりは典型的な天下りなわけで、これだけ見ると何だか甘い汁をたっぷり吸ったように見えるけれども、実際には、この会社は、ちっぽけな上に破産寸前だった。

 路線敷設の免許だけは持っていたものの、資金がないため着工にいたらず、つまりは1メートルの線路も所有していない。

 社員の給料を支払うのも事欠くありさま。慶太もいっとき無給だった。こういう吹けば飛ぶような弱い会社がゆくゆく東京横浜電鉄と社名を変え、その名のとおり渋谷と横浜をむすびつけ、日本を代表する私鉄路線となるわけだが(現在の東急東横線)、その発展のきっかけは、実際のところ、慶太ひとりの経営手腕というよりは、多分に偶然の要素が強かっただろう。

 なぜなら慶太は、この時期、目黒蒲田電鉄というもうひとつの鉄道会社の経営をまかされていたが、こちらのほうが、はからずも大もうけしたのである。

 目黒‐蒲田間を開業したとたん、関東大震災が起きたからである。都心の被災者がこぞって沿線に移住した。この収益をぞんぶんにつぎこむことで、慶太はようやく、東京横浜電鉄のほうの、渋谷‐横浜間を開業することができたのである。鉄道会社の経営というのは、線路を敷き、駅を建て、最初の列車を発車させるまでがいちばん苦しいのである。

 ところでなぜ渋谷‐横浜間なのか。これは慶太には関係がなかった。もともと慶太が最初に来たとき、あの弱小の武蔵電気鉄道が保持していたのが横浜‐東京中心部の免許だったのである。

「東京中心部」とはまたずいぶん目的地が曖昧だけれども、これはこの会社が、弱小なだけに、免許だけはむやみやたらと手を出したことが関係しているらしい。いろいろな路線について申請と認可と失効をくりかえしていたのだ。結局、慶太は、この「東京中心部」すなわち東京側のターミナルを渋谷とさだめたわけだが、これもやはり「縁」というか、第一希望だったかどうか。

 駄洒落ではないけれど、それこそ、

 ――しぶしぶ。

 という感じだったかもしれない。なぜなら、横浜とむすぶなら、まず大前提として東京側のターミナルは省線(現JR)山手線の駅でなければならない。山手線は路線が円形をしていることは言うまでもないが(実際は縦に長い)、その円の外側では「中心部」とは呼べず、かといって、その内側には民営鉄道はけっして侵入することができないからである。

 すでにして東京市がいわゆる市電、路面電車の路線網をはりめぐらしている。いまさら新たな線路を敷くための土地は残されていないのである。

 そこで円周上のどの駅にするかとなると、本音としては、慶太はもちろん、人口の集中している東半分のほうへ向かいたかったにちがいない。

 品川、新橋、東京あたり。しかしながらこの道のりは、それこそ明治維新の直後から、省線・東海道本線という日本の大動脈がどっかと腰をすえている。巨人を相手にするようなもの。とてもではないが何の既得権もない一私鉄には対抗できない。

 そこで余儀なく西半分となると、その第一は、やはり新宿ということになるだろう。江戸時代の宿場町「内藤新宿」に端を発するにぎやかな商業地帯であるのみならず、鉄道路線の上では、何と言っても日本のもうひとつの大動脈である中央本線がまっすぐ東西に横切っている。

 東側の終点は、東京駅である。慶太はもしも新宿までたどり着くことができれば、乗りかえひとつで、山手線の内側へ入りこめるのだ。

 だが慶太は、結局のところ、自分の根拠地は渋谷とした。新宿の手前でストップしたのは何らかの障害が生じたのか、それとも渋谷の街が気に入ったのか。いまとなってはその機微はうかがいづらいけれど、とにかく東京横浜電鉄は工事を開始した。渋谷‐横浜間の開通めざして。

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 渋谷駅の開業は、昭和2年(1927)。慶太は45歳になっていた。慶太はこのとき、さだめし渋谷を、

 ――終(つい)のすみか。

 と見ただろう。

 残りの人生はすべてこの街のために捧げるものと、ようやく心がさだまったろう。そうして心がさだまってみると、渋谷の街は、慶太にはじつに自己を投影しやすい街だった。

 投影というより、ほとんど同一視かもしれない。自分は渋谷とおなじじゃないか。渋谷は自分とおなじじゃないか。

 渋谷というところは、江戸時代には郊外の別荘地だった。

 大名や旗本が下屋敷を持ち、庭を持ち、ほかには寺と田畑くらいしかなかった。自分も田舎者。長野の山にかこまれた小さな集落のそだち。

 信心ぶかい両親には朝晩かならず仏壇の前で「南無妙法蓮華経」をやらされた。そればかりが原因ではないけれども、いっしょうけんめい勉強して、東京帝大法科大学を卒業したときは、友達とくらべると無駄に年をくっていた。官界での出世にも失敗した。

 ひとことで言うと、自分(慶太)は、人生に出遅れたのである。そうして渋谷という街もまた近代の世に出遅れた。新宿とくらべると発展の度も低く、いまだ繁華街とは言いがたい。それでもこれから渋谷は、自分は……五島慶太の人生がほんとうに躍動しはじめるのは、この瞬間からなのである。

「強盗慶太」の誕生だ。渋谷駅前に東横百貨店を開店し(現在の東急百貨店)、三越を乗っ取ろうとして失敗し、しかし地下鉄の乗っ取りには成功した。ここで地下鉄というのは、早川徳次(のりつぐ)という山梨出身の経営者がこしらえた浅草‐新橋間の路線のこと。

 日本で最初の地下鉄道。これは慶太には垂涎の的だった。慶太は慶太でそっくり早川のやりかたを踏襲して、渋谷から新橋までの地下鉄を敷いた。そうして激しい株の取り合いの末、こちらの要求を早川に呑ませた。

 その要求とは、新橋における相互の直通運転だった。これにより慶太は、両線をつなげた渋谷‐浅草間の地下鉄を手に入れたわけで、これは渋谷を出たあとは、青山、新橋、銀座、日本橋、神田、上野を経由して浅草にいたる。

 都心中の都心である。現在の東京メトロ銀座線。慶太はあの山手線の内側への進出をみごとに果たしたばかりか、その進出のための結節点として、渋谷の街がよりいっそう価値を高めたのである。新宿に一歩、近づいたのだ。

 直通運転の開始は、昭和14年(1939)だった。

 慶太は57歳である。おそらくこの瞬間、慶太の自信は頂点に達しただろう。と同時に渋谷の街もまた、もしも心を持っていたら、たしかに何らかの誇りを持った。自分だって都心へちゃんと入れたのだ。むかしは郊外だったけれど、新宿と同様、これでほんとに東京の一員になったのだ。

 渋谷はこののち、急速に、こんにち見るような「生き馬の目を抜く」商都になる。

 直接の理由は、駅の客がふえたことである。駅前広場には人があつまり、忠犬ハチ公の像が置かれ、東横百貨店は繁盛した。そもそもの話のはじまりである横浜への路線も沿線住民が増加したし、慶太のところ以外にもターミナルを渋谷に置く会社があらわれた。帝都電鉄、いまでいう京王電鉄井の頭線である。

 街のにぎわいは日ごとに増し、戦後にいたる。現在も渋谷駅のまわりには東急本社はもちろんのこと、東急百貨店、東急ハンズ、エクセルホテル東急、Bunkamura……さながら東急王国である。

(連載第21回)
★第22回を読む。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。
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