見出し画像

中国の長期的衰退の原因は何か?/野口悠紀雄

★前回の記事はこちら
※本連載は第22回です。最初から読む方はこちら。

 中国は、明の時代から鎖国政策を取るようになり、衰退していきます。これは、政争による面もありますが、基本的には、リスクに挑戦する仕組みがないという中国社会構造の基本的な欠陥によります。

◆明の海禁と永楽帝の積極政策

 明が大航海を行なった目的は、明帝国の威光を世界に知らしめ、進貢国を増やすことだった。つまり、経済的なものではなく、多分に政治的なものだった。

 これが世界史の通説なのですが、グレン・ハバードとティム・ケインは、『なぜ大国は衰退するのか』(日本経済新聞出版社、 2014年)の中で、これとは若干異なる見解を示しています。

 それは、「永楽帝は朝貢だけでなく、実益上の観点からも貿易を重視した」という考えです。

 宋代から元代にかけて、中国の商人たちは、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていました。元の時代に中国はヨーロッパとの結びつきを強め、中国製品に対する需要は高まりました。

 しかし、明を建国した洪武帝は、1371年に「海禁令」を発し、外洋船の建造と民間船舶による外国との通商を禁じました。

 これは、外国貿易によって沿岸地方の都市が発展し、皇帝の統制に服さなくなることを恐れたためだと言われます。

 しかし、福建省や広東省の人びとにとって海上交易は死活問題だったので、密貿易は続けられました。また、中国人の多くが東南アジアに移住し、貿易をして富を蓄え、中国人街を形成していきます。これが、華僑の始まりです。

 「海禁令」は永楽帝の代においても有効だったのですが、永楽帝は、洪武帝の消極的な対外政策を改めて、周辺諸国との関係を強化したいと考えたのです。

 そして、実際に、民間資易を認め、コショウや金に対する資易規制を解除しました。

 さらに、「4つの海に囲まれた人々はみなひとつの家族である」と語り、「国境の柵を越えて相互貿易をおこない、国に必要なものを入手するとともに、遠隔地の人々の来訪を促そう」と宣言しました。

 こうした対外積極政策の一環として、鄭和の大航海を行なったというのが、『なぜ大国は衰退するのか』の考えです。

◆政策が二転三転

 永楽帝の対外積極政策は、「中国の繁栄の源は農業のみ」という理想を持っていた儒者の顧問たちにとっては不快なことでした。

 このため、その後の権力争いによって、対外政策が二転三転したのです。

 永楽帝が1424年に亡くなると、息子の洪煕帝(1378~1425年。在位1424~25年)は、周囲を伝統的な儒者の一団で固めました。そして、即位したその日に、「宝船の航海をすべて中止する」という勅令を出しました。

 第6次まで続いた鄭和の大航海が一旦停止したのは、このためです。

 しかし、洪煕帝は1年で死去しました。

 つぎに即位した第5代の宣徳帝(1398~1435年。在位 1425~35年)は、貿易や開放政策を望みました。

 このため、1431~33年の第7次航海が行なわれました。

 しかし、鄭和の死の翌年、1435年に宣徳帝が死去すると、明は再び鎖国的になり、航海は行われなくなりました。

 第6代の英宗帝(または正統帝)(1427~64年。在位1435 ~49年)は、儒者よりの立場をとり、貿易の時代に終止符を打ちました。

◆中国は鎖国政策に閉じこもる

 こうして、永楽帝と鄭和が行った大航海は継続せず、朝貢貿易は崩壊したのです。

 明の大艦隊は、港で朽ち果てました。

 海岸地域の住民は、その後も貿易を行なっていたのですが、明の宮廷はそれを好ましくないものと見ていました。

 1500年には、3本以上のマストがある船の建造は、死刑に当たる罪とされました。1525年には、外洋船を取り壊す命令が出されました。

 1551年までには、複数のマストがある船の航海は、たとえ貿易目的でも、犯罪とされるようになりました。

 このように、「権力闘争の結果、外洋航海が崩壊した。政治が経済成長を止めた」というのが、『なぜ大国は衰退するのか』の見解です。

◆中国には、フロンティア発見のインセンティブがなかった

 『なぜ大国は衰退するのか』が言うように、政争が発展を阻害したのは、間違いない事実です。

 ただし、それと矛盾することではありませんが、私は、中国の社会構造や制度そのものが重要と思います。

 政治学者フランシス・フクヤマは、「明朝中国には、近代的経済の発展に不可欠だと現在考えられている制度の大半が存在していたから、制度が衰退の原因ではない」と言っています。

 しかし、この意見には承服できません。

 とくに重要なのは、中国には、新しいフロンティアを求めるインセンティブが存在しなかったということです。

 後の回で述べるように、ヨーロッパにはリスクに挑戦するインセンティブがありました。

 コロンブスやマゼランなどの冒険家は、経済的な利益を獲得したいと考えて、危険な航海に乗り出したのです。

 ヨーロッパにおける大航海は、リスクへの挑戦だったのです。

 しかし、中国には、以下にのべるような意味において、このような人物が活躍できる社会的な基盤がありませんでした。

 永楽帝は貿易を重視したといいますが、リスクに挑戦したわけではありません。

 鄭和も、官僚として職務を実行しただけであり、自らの利益を求めて冒険航海を行なったわけではないのです。

 大航海は国家プロジェクトであり、鄭和は、皇帝の命を受けた官僚としてこれを行なっただけです。

 そのため、中国は、地球を周航できる技術を持っていたにもかかわらず、それを実行しようとは考えませんでした。そのため、太平洋を横断して「新大陸」を発見することをしなかったのです。

 こうして、中国は高い技術水準を持ちながら、歴史の動きから大きく立ち遅れることになりました。

 ある時点以降、ヨーロッパは地球規模で膨張していったのに対して、中国は500年の大停滞に陥りました。技術的には優越していた中国がその後の世界をリードできなかったのは、基本的な社会体制の違いによると考えざるを得ません。

◆歴史の転換点はいつだったのか?

 多くの歴史家によれば、歴史の転換点は、明の時代です。

 『なぜ大国は衰退するのか』で、歴史家のアンガス・マディソンが示したデータが紹介されています。

 それを見ると、明朝の頃に中国の成長が止まり、人口1人あたりのGDPが増えなくなりました。

 1700年のイギリスを100とした場合の中国の経済力は、つぎのように変化しました。

 1000年で52、1500年で163、1600年では375。つまり、1600年の中国は、100年後のイギリスの4倍近い経済力をもっていたのです。

 ところが、1700年では218になりました。この時点でもまだ同時代のイギリスの倍の経済力をもっています。

 しかし、1600年代に転換点があったのは明白だと、『なぜ大国は衰退するのか』の著者たちは言います。

(連載第22回)
★第23回を読む。

■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
【編集部よりお知らせ】
文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「# みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「# みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!

▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!

★2020年5月号(4月配信)記事の目次はこちら



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

記事へのご意見・ご感想をお待ちしています。「#みんなの文藝春秋」をつけてご自身のnoteにお書きください。編集部がマガジンにピックアップします。皆さんの投稿、お待ちしています!

ありがとうございます!
12
シェアしたくなる教養メディア。100年近くの歴史がある総合月刊誌「文藝春秋」が、あなたの人生を豊かに彩るコンテンツを毎日お届けします。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。