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『赤と黒』スタンダール(後編)|福田和也「最強の教養書10」#5

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回の1冊は、フランスを代表する作家による、世界的な名作小説。(後編)

★前編を読む。

 この小説は、神学生ベルテの事件に着想を得たとされる。事件とは次のようなものだ。

 一八七二年二十二日、スタンダールの郷里グルノーブルに近い小村ブラングのある聖堂でミサが終わる頃、アントワーヌ・ベルテという青年が地主の妻ミシュー夫人をピストルで撃った。この青年は貧しい鍛冶屋の息子で、司祭の厚意によって教育を受け、才知からミシュー家の家庭教師となった。容貌がよかったこともあり、夫人と恋仲になったため、家を追い出された。しばらく神学校で学んだ後、コルドン家に雇われたが、ここでも令嬢と恋愛沙汰を起こしたため辞めさせられてしまった。そこで再び神学校で学ぼうと思ったが、悪い評判が立ってしまい、どこの学校も入れてくれなかった。行き場を失ったベルテは全ての責任はミシュー夫人にあると思い込み、夫人を殺害して自分も自殺をしようと思った。ところが狙撃は失敗し、ミシュー夫人は致命傷に至らず、ベルテは自殺を謀る前に逮捕された。同年十二月、グルノーブル法廷はベルテに死刑を言い渡し、翌年処刑された。

 スタンダールはこの事件の公判記録を『法廷新聞』で読み、事件をモチーフに小説を書くことを思いついたのだが、そこには革命以降、上層階級の人間たちはすっかり精力を失ってしまい、極端な貧しさと教育が力強いエネルギーを生むという確信があった。恐らくナポレオンをその典型例ととらえていたのだろう。

 主人公のジュリアン・ソレルは次のような形で小説に登場する。

〈……見たところ弱々しい十八九の小柄の若者で、わし鼻の、ととのってはいないが美しい顔立ちだった。静かなときには、思慮と情熱を示すその黒い大きな眼は、この瞬間、世にも恐ろしい憎悪の色に燃えていた。濃い栗色の頭髪が、ごく低くまではえ下っているので、額が狭くて、怒ったときにはいじわるそうに見える。数かぎりなく変化のある人間の容貌のうちでも、これ以上目立った特徴で異彩を放つものは、おそらくまたとなかろう。そのすんなりと釣合いのとれた体つきは力よりもむしろ身軽さを物語っていた。〉

 サマセット・モームは自著『世界の十大小説』において、『赤と黒』を「十大小説」の一つとして取り上げているが、この小説が後世長きにわたって受け入れられている理由の一つは、主人公のジュリアン・ソレルにあると言っている。

 自分よりも特権に恵まれた階級に生まれた人間に対して激しい嫉妬と憎悪をいだいた、労働者階級出のジュリアンはいつの時代にも見られ、この世から階級というものがなくならない限り存在し続ける一つの人間の型であるからだ。

 もしもスタンダールがジュリアンを自分と同じ富裕な中産階級の人間に設定していたなら、この小説は船の重石となって消えていたかもしれない。

 さらにスタンダールは社会の底辺である労働者階級出の若者に、自分の持つ、勇気、臆病、感受性、才知、虚栄心を与えたうえに、自分が持ちえなかったものすら与えた。それは、美貌と女性の心をやすやすと手に入れる力である。

 かくして、文学史上最強の主人公、ジュリアン・ソレルは誕生した。
 才能を見込まれ、町長のレナール氏に子供たちの家庭教師として雇われたジュリアンは神学生ベルテと同様、夫人と恋仲になるが、そのきっかけとなる重要な場面がある。

〈(十時が鳴るちょうどその瞬間、今晩やるんだと、一日中、心に誓ってきたことをやってのけよう。できなけりゃ部屋にかけ上って、脳天をピストルで打ち抜くんだぞ!)

 あまり興奮してジュリアンが我を忘れたようになった期待と焦燥の最後の一瞬の後に、頭上の大時計に十時が鳴りひびいた。革命を決する鐘の一打ち一打ちが、彼の胸のうちに反響して、肉体的なショックのごときものを感じさせた。

 ついに、十時の最後の一打ちが鳴りひびいているとき、彼はつと手を伸ばして、レナール夫人の手をとった。……〉(同前)

 この場面は前に少し触れたが、スタンダールの経験がそのまま生かされている。ダリュー夫人を情人にしようと考えたスタンダールは、夫人と二人で庭を歩いているとき、ある場所を目標地点に定め、そこに至ったときに夫人に思いを伝えようと決め、それができなければ自殺してしまおうと心に誓った。そして、目標地点に来たとき、思い切って口を開いたのだった。

 スタンダールの場合、結果は失敗だったが、ジュリアンは見事夫人の心をとらえることに成功する。しかしながらジュリアンが夫人を誘惑したのは単純に恋をしたからではなく、夫人の属する階級に恨みを晴らすのと同時に自分の虚栄心を満足させたかったからである。

 偽善家としての一歩はこうして始まった。

 野心のために偽善家であることは、彼の精神に重苦しい屈託を与えずにはおかなかった。偽善の限りを尽くした町長宅での勤めから、一時の安らぎを求めて、ジュリアンは親友の家に遊びに行くのだが、親友の元でも心身を伸ばしきれないほど、屈託に責められる。

〈ついに彼はその高山の頂に達した。山越えの路をとって友人の年若い材木商人フーケのすむ淋しい谷へゆくには、この頂の近くを通らねばならなかったのだ。ジュリアンは友に――彼にも、他のどんな人間にも――いそいで会いたいとは少しも思わなかった。この高山の頂の裸のままの岩の間に、あたかも猛禽のように身をひそめた彼は、近づくものがあれば、ごく遠方から認めることができた。彼はその岩のほとんどで切立った斜面の真中に小さい洞穴が一つあるのを見つけた。彼はかけ出した。そしてすぐにその隠れ場に身をかくした。(ここなら誰もおれに危害を加えることはできまい)彼は喜びに眼を輝かしていった。(中略)(なぜここで夜を明かさないのだ?)彼は自ら反問した。(パンもある、そして自由だ)この自由という美しい言葉のひびきに彼の魂は躍動した。偽善家の彼は、フーケの許においてさえ、自由な気持ちにはなれなかったのだ。頭を両手にささえ、平原を見渡しつつ、夢想と自由のよろこびに心をときめかしながら、ジュリアンはこの洞穴のうちで、生まれてかつてない幸福な気持にひたっていた。〉(同前)

 山塊の、奥まった洞窟の中で一人になった時に、はじめて幸福になれるような、精神。彼がなぜ徹底的に一人にならなければならないかと云うならば、彼は人間たちの間にいる時には、徹底して偽善を貫かなければならないからだ。何より自分自身を欺かなければならないからだ。

 そんなジュリアンも夫人の善良さに触れるうちに心から彼女を愛するようになる。モームはレナール夫人もまた『赤と黒』の大きな魅力の一つだと指摘する。貞淑で誠実な女性というのはとかく平凡でつまらない人物になりがちだ。ところが、レナール夫人が躊躇を覚えながらも次第にジュリアンを愛するようになり、最後にその愛が激しい恋愛になって燃え上がるあたりの叙述はまさに名人芸だとモームは賞賛している。

 レナール夫人がうまく描けているからこそ、卑しい本能から離れて夫人を愛するようになっていくジュリアンに読者は強い共感を覚えるのだ。

 ところがレナール夫人の軽率な行動から二人の噂がたちはじめ、ジュリアンは町長宅を出なければならなくなり、彼は偽善家に逆戻りする。

 以前よりもさらに徹底した偽善によって、ジュリアンは立身し、ラ・モール侯爵の秘書として迎え入れられ、その令嬢マチルドを恋人にする。ところが彼は自らの野心が成就しようとする、その瞬間に、唯一自らの真情を吐露したレナール夫人に裏切られたと思い、その恥辱のために全てを犠牲にしてしまう。「裏切った」レナール夫人に向かって、教会で発砲したのだ。

 この最終部分の展開は自制心の強いジュリアンとは思えぬ行動が続き、首をかしげる読者も多いことだろう。

 世の批評家たちもこの矛盾を解き明かそうと、様々な説を打ち立ててきた。

 モームは、ジュリアンが数々の不可解な行動の末、レナール夫人を銃で撃ったのは、スタンダールの想像力のなさ故だと指摘している。スタンダールの小説はいずれも実際に起きた事件や他の作家の作品が元になっている。バルザックのような豊かな創作力に欠けるスタンダールはベルテ事件そのままに、ジュリアンを夫人に発砲した罪で、処刑にしなければならなかったというのだ。

 これが事実であるかどうかは分からない。ただこの小説に重大な欠陥があることは事実である。しかし、モームは、そうした重大な欠陥があるにもかかわらず、『赤と黒』は「きわめて偉大な書物で、これを読むことは得がたい一つの経験なのである」と、評価している。

 私はこの結末こそ、『赤と黒』にふさわしいと考える。

 偽善は勝利してはならなかった。偽善家は自らの真情によって、死刑台に送られなければならなかったのだ。

〈地下牢の悪い空気はジュリアンにとてもたえきれなくなってきた。しあわせと、彼の死刑執行が知らせられた当日は、美しい太陽が自然を生きいきさせていて、ジュリアンは元気が出た。大気にあたって歩くということは永い航海に疲れた人が陸を歩くときのように、快い感覚であった。(さあ、これで万事都合よし、おれは勇気を失っておらぬ) と思った。彼の頭脳はそのまさに断たれようとする刹那ほど詩的であったことは今までになかった。かつてヴェルジーの森で経験した楽しい瞬間の記憶がいちどきに、しかも極端な力強さをもって描かれたのであった。〉

 今まさに斬首されるようとしているジュリアンの心情の何と清澄なことか。

 スタンダールはシャトーブリアンが流行させた、華やかな修辞や冗漫な言い回しを嫌った。できるだけ平明に書くことを心がけ、『ナポレオン法典』を傍らに置き手本にしていた。

 その文章がこのジュリアンの最後の場面で最大限の力を発揮している。

 スタンダールは、青春の思い出、というよりも一瞬の恍惚に生涯忠誠を誓い、その忠誠によって、近代においては、いかに幸福が、恋愛が、官能と感傷が難しいかを身をもって明かした作家だった。

 大革命と前後して出生し、幼くして母を失い、父親に反発し、革命期の理性への熱狂とともに教育を受け、十七歳のときにナポレオンのイタリア遠征に参加し、ハプスブルク帝国の支配から北イタリアが解放される様を目の当たりにした。この歴史的な転変の中で、はじめて恋をし、女を知った。軍をやめると、恋愛遊戯とオペラ通いを繰り返し、劇作家になるべく戯曲の執筆を試み、女優と同棲するも成功を勝ち得なかった。

 ナポレオンが、その帝国を賭けた、もっとも大規模な征服を試みたとき、奇しくもスタンダールはその軍の中にいた。皇帝の夢が、炎上するモスクワの背景として潰えた戦いを生き延びたスタンダールは、王政復古のもとで小説を書き始めた。

 小説は、すでに夢を夢として語ることを許さない社会において、偽善と屈託の中で生きることを余儀なくされた近代人の精神を捉える唯一のジャンルだと思われたからだった。

 スタンダールの主人公たちが苛んでいる偽善は、私たちにとっては極端すぎるように思われる。しかしもっとも肝要なことは、私たちが今やこの偽善という感覚をすら、なくしてしまった、欺くという手触り、もしくは手続きすらなく、我知らず何の意識もなしに自分自身を徹底的に貶め、踏みにじっているということだろう。

 スタンダールは「to the happy few」という言葉を好んだ。数少ない幸福者のために自分の小説は存在すると考えていたのだろう。

 偽善にすら鈍感な私たちは、ハッピーたりうる可能性を徹底的に失っているのではないだろうか。

(完)

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