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書くことで、整理されていく。語られることで、変化していく。 ーー佐渡島庸平と岸田奈美、村上春樹『猫を棄てる』を読む。

ずっと村上さんの文章のとりこだったと語る佐渡島さんと、中学生の時に急逝した父が村上さんの大ファンだったゆえ、なぜか作品に手が伸びなかったという岸田さん。村上作品へのスタンスが対照的な2人が、最新刊『猫を棄てる 父親について語るとき』を手に取った。読み終えたあと、2人はどんなことを考えたのか。溢れ出す想いを語り合った。(構成:岸田奈美)

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◆佐渡島庸平(さどしま・ようへい)
編集者・株式会社コルク 代表取締役社長 1979年生まれ。思春期を南アフリカ共和国で過ごす。大学卒業後、講談社に入社し、マンガ編集者として、井上雄彦『バガボンド』、三田紀房『ドラゴン桜』、安野モヨコ『働きマン』、小山宙哉『宇宙兄弟』などを担当。また伊坂幸太郎『モダンタイムス』、平野啓一郎『空白を満たしなさい』など、小説の連載を担当する。2013年、作家のエージェント会社、株式会社コルクを立ち上げる。


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◆岸田 奈美 (きしだ・なみ)
作家。1991年生まれ、神戸市出身。ユニバーサルデザインのコンサルティングを行う株式会社ミライロに大学時代から入社。車いすユーザーの母、ダウン症の弟をテーマにしたエッセイが、「note」で話題になり、フォロワーが3万近くになる。小説現代で『2億パーセント大丈夫』、「ほぼ日刊イトイ新聞」で『いなくならない父のこと。』を連載中。コルク所属。https://kishidanami.com/

村上さんは、いちばん会話をしてきた人

岸田 わたしは『猫を棄てる』で、はじめて村上さんの本を読みました。

佐渡島 村上さんの作品って、岸田さんの好みのど真ん中の気がするけど、読んでなかったのは意外!? 何か理由があるんですか?

岸田 中学生のときに亡くなった父が、村上さんの熱狂的なファンで。ヘタな感想を言おうものなら「お前は村上春樹をわかってない!」ってやかましく言われそうで、気になるけど読めずにいました(笑)。それがなぜか、今までズルズルと。

佐渡島 なるほど。確かに、それは読むのを躊躇しそう。今回は、いいきっかけになったんですね。これから村上さんにハマるということは、たくさんの作品を一気に読めて、楽しみがいっぱいあって、うらやましいですね。今回、読んでみて、どうでした? 

岸田 読み終わってから「なんでもっと早く読まなかったんだろう」って、後悔しました。それで次に、デビュー作の『風の歌を聴け』を読んで、一作ずつ村上さんの軌跡をたどっています。めちゃくちゃ贅沢です。

佐渡島 『風の歌を聴け』は僕も大好きな作品! 中学生のころにはじめて出会って、もう何十回も読んでるなあ。一番繰り返し読んだ作品かも。

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岸田 佐渡島さんにとって、村上さんはどんな作家さんですか?

佐渡島 僕がいちばん会話をしてきた人かもしれない。

岸田 そんなにお会いしたことがあるんですか?

佐渡島 一度もないんです(笑)。

岸田 どういうこと(笑)!?

佐渡島 会話って、お互いが一文ずつ話して、理解を深めていきますよね。文章も同じだと思ってて。

岸田 どうやって文章と会話するんです?

佐渡島 村上さんの文章を、一文ずつ立ち止まるようにして読むんです。「なぜこの一文を書いたんだろう?」とか「あえてこの言葉を選んだのはどういう理由だろう?」とか考えていると、作者と頭のなかで会話してるような感じになるなと思っていて。

岸田 読むのにものすごーく時間がかかりませんか?

佐渡島 時間がかかるのがいいんです。ストーリーを楽しみたいのではなくて、作者との対話を楽しみたい。村上さんの文章の中の一文のことを、読み終えた後、数日ずっと考えていたり。1年後とかに急に、村上さんの文章を思い出して、こういう意味だったのかもと思ったり。僕は中学の頃、南アフリカに住んでいて、会話相手がいなかったから、その頃、頭の中でずっと村上さんと会話していた。それが大学生くらいまでずっと続いたから、夢にも村上さんが出てくるようになって、喋ってました(笑)。

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岸田 すごい、突き抜けてる。でも作者と会話できるようになるのは魅力です。『猫を棄てる』も、一文ずつゆっくり読んだんですね。

佐渡島 うん。88ページの〈たとえば僕らはある夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てに行ったのだ。〉は好きです。

岸田 どこが気になったんですか?

佐渡島 前の文章との繋がりを考えても、よくここで〈たとえば〉なんて書き出しを生み出せたな、すごいなあ、って。

岸田 細かい!

佐渡島 細かいかな? 村上さんは、何度も読み直す中で、そのような語感も確認して書いたと思う。作者が書くよりはずっと速いペースで読んでいるわけだし。

岸田 うーん……そう言われたら〈たとえば〉って、この場面ではなかなか出てこない言葉かも。なんで村上さんは〈たとえば〉を使ったんでしょう?

佐渡島 わからないです(笑)。こういう言葉遣いが村上さん独特で、自分はできないのだけど、しっくりくる。朗読すると、音が絶妙にいい。こういうことをはっきり説明できるようになった時に、村上さんが考えていることをもっと正しくわかるのかもしれないなって思います。

岸田 そんな視点で読んだことがなかったので、びっくりしています。もう一度読むのが楽しみになりました。

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『風の歌を聴け』から『猫を棄てる』への変化

岸田 佐渡島さんも大好きな『風の歌を聴け』の冒頭で村上さんは、文章を書くことは自己療養へのささやかな試みだと書いていますよね。

佐渡島 そうですね。『風の歌を聴け』は、僕は青春小説として、初めは読んでいました。自殺する女性が出てくるけど、青春時代は、そのような出来事にどうしても遭遇してしまう。それくらいの意味しか、女性のエピソードから読み取っていなかった。でも、ある時に自殺してしまった彼女への思いや後悔を、まだ抱えていて、言葉にできない主人公の話だと言われて。そう知ってから、読み直すと、さらっと読んでいた言葉が、違う重みを持ってくる。この物語を書くことで、村上さん自身が、過去経験した何かへの自己療養としてのささやかな試みをしているのだと感じました。

岸田 『猫を棄てる』でも、村上さんがお父さんについて文章にすることで〈自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる〉と書かれていました。村上さんが文章を書く目的は、40年前と同じなんですね。

佐渡島 はい。まだ整理できていない感情を、文章にすることで整理しようとするという点で同じだと僕も思いました。『風の歌を聴け』と『猫を棄てる』で違うのは、トラウマを他人へ引き継ぐことが良いか悪いか、の判断かなと思っています。村上さんにとって、トラウマを引き継ぐのかどうかは、ずっとテーマになっていると思っていて。

岸田 トラウマの描き方が、その2作でどう変わったんですか?

佐渡島 たぶんだけど『風の歌を聴け』を書いたときの村上さんは、彼女の死というトラウマを他人に引き継いではいけない、って考えていて、「僕」はそのことを「鼠」とは共有していない。主人公は、彼女の死を自分だけで受け止めないといけなくて、文章しか向き合う先がなかった。

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岸田 『猫を棄てる』ではむしろ、お父さんが戦争で経験したトラウマを、血をわけた村上さんが引き継ぐことが、心の繋がりであり歴史でもあるって肯定していますよね。

佐渡島 そう。これも想像だけど、子どものころの村上さんは、お父さんが戦争のトラウマを聞かせた意味を理解できなくて、憤りや戸惑いを感じてたのかもしれない。だから『風の歌を聴け』では、自分は父親のようにつらかったことを周りには話さない。自分のところで、トラウマの連鎖を断ち切ろうとしていた。

岸田 そっか。お父さんについてちゃんと調べて、わかろうとしたら、トラウマは受け入れるものだという答えになったんですね。

佐渡島 岸田さんは、お父さんが亡くなってからすぐ、そのことを他人に話せた?

岸田 話せませんでした。

佐渡島 なんで話せなかったのか、思い当たることはありますか?

岸田 「悲しい」「苦しい」っていう感情しかなくて、言葉にすると余計に思い出して落ち込むし、それを聞かされる他人もかわいそうだなと思ったので。

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佐渡島 言葉にすると、できごとの意味も変わっちゃうから、しない方が良い時もあると僕は思ってます。南アフリカに住んでいた時に、通っていた学校の先生が殺されてしまったことがあって。

岸田 ああ……。

佐渡島 ものすごく大きな衝撃だった。そのときの友人たちとは、今でも集まろうと思えば集まれるんだけど……思い出話をすると、必ずその先生のことが頭をよぎってしまう。だから、すごく濃い縁ができたのに、同窓会を開こうとなりにくい。

岸田 過去を話すことは、自分も他人も傷つけてしまうんですね。

佐渡島 うん。でもそういう時の“傷”って、避けるべき悪いことなのかとも、考えることがある。岸田さんが感じた傷、お父さんが感じた傷、ふたりが向き合って生まれた傷がそれぞれあるわけで。そういう傷自体が、絆の深さでもあるわけで、思い出さないことで全部なかったことにしてしまっていいのだろうかと。

岸田 わたしは、父から学んだことや、一緒にいて楽しかったことをじっくり思い出して、文章にして、ようやく父との傷に向き合い、癒せるようになったのかもしれません。

佐渡島 村上さんと同じ、文章で自分を癒やすささやかな試みを岸田さんもしたのだと思う。岸田さんはお父さんとの傷を見つめることで、絆を再構築しようとしたんですね。

岸田 だけど、ずっと自分のなかにモヤッとした後悔があったんです。父との大切な思い出を、わたしの勝手な解釈で、文章にして発信してしまうことに。記憶は曖昧だから、私の思い込みも、間違いもあるかもしれない。それは父に対して、嘘をついていることになるかもしれないって。

佐渡島 お父さんとの関係が壊れてしまうかもしれないって?

岸田 はい。でも『猫を棄てる』の88ページで、村上さんが、〈考え方や、世界の見方は違っても、僕らのあいだを繋ぐ縁のようなものが、ひとつの力を持って僕の中で作用してきたことは間違いのないところだった〉と書いていて、涙がぼろぼろこぼれました。お父さんがどう捉えていたかはわからないけど、わたしはわたしのために、お父さんのことを書いていいんだって許されたような気がしました。

佐渡島 そう思います。岸田さんは「嘘」と「再構築」の区別がついていないから、つらかったんじゃないかな。

岸田 ああ、たしかにそうです。『猫を棄てる』には、お父さんに対する村上さんの憶測や断片的な記憶がいっぱい書かれているけど、嘘とは思いませんでした。

佐渡島 岸田さんがこれから作家として向き合っていく文学的なテーマが「嘘」というのはすごくいいかもしれない。なにをもって嘘とするのか。

岸田 村上さんの作品を読むことで、文学的なテーマまで見つかってしまった……。読んでよかったです。

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人と人は、家族であってもわかりあえないのか

岸田 『猫を棄てる』でわたしが一番好きなシーンは、さっき紹介した「考え方や、世界の見方は〜」です。佐渡島さんは?

佐渡島 やっぱり、13ページの、棄てた猫が家へ戻ってきたときのお父さんの描写です。呆然としていたお父さんが、やがて感心した表情に変わり、最後にほっとした顔になるっていうところ。あの文章は、随一の作家による最高の文章だと思いました。

岸田 わかります。村上さんのお父さんの人柄がものすごく伝わってきますよね。

佐渡島 村上さんが、お父さんについて、シンプルな言葉で正確に伝えたい、っていう強い気持ちで言葉を選んでいることがすごく伝わってきました。

岸田 村上さんとお父さんとの関係をじっくり読んだことで、佐渡島さん自身が息子さんになにを語り、なにを残すかって考えたりしました?

佐渡島 すごく考えた!

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岸田 息子さんとどんなことを語ろうと?

佐渡島 それが、息子と語るってすごく難しい。まず、下の子は4歳だからまだ自分の思いをくわしく語れるほどの言葉を持ってない。上の子は9歳だから、俺は語りあいたいんだけど、息子は語りたくないらしくて(笑)。

岸田 えっ!

佐渡島 長男は、語り合わないと僕がわからないっていう状態に怒ってしまう。どういう意味、もっと聞かせてよって言ったら「なんでパパは言わないとわかんないの。見てたらわかるでしょ」って。

岸田 あ……わたしもなんか、同じようなことを父に言った気がします(笑)。

佐渡島 家族っていちばん近くにいるのに、いちばんわかりあえない存在かもしれないなって思ってます。

岸田 でも大人になったら、腹を割って話せるようになるんじゃ?

佐渡島 いやあ。家を出て、正月やお盆の数日だけ帰っても、深い話はほとんどする時間はとれない。そもそも、なにを、どこから語り合えばお互いを理解できるのかもわからない。果たしてそれが人生観みたいな大きな話なのか、昨日あったことみたいに小さな話なのか。

岸田 たしかに、そのとおりですね。

佐渡島 村上さんにとっては、お父さんを理解するためには、戦争の話を知るのがいちばんだった。それで猫を棄てたときのお父さんの表情も説明がついた。だけど、その理解の仕方が本当に正しいのかどうかは、誰にもわからない。

岸田 人と人は、本当の意味でわかりあえないかもしれない。だからこそ、作家になった私は、村上さんの文章を書くのは自分を癒やすためだ、という考えを忘れてはいけない気がしました。

佐渡島 お父さんと向き合った文章を書いた村上さんが、この次にどんな小説を書くのかが、僕はより楽しみになった。村上さんの作品をずっと読んできた人も、『猫を棄てる』を読んでからもう一度過去の作品を読むと、村上さんがずっと書こうとしているテーマへの理解が深まって、面白いのではないかと思う。『ねじまき鳥クロニクル』は、特に読み直したいですね。

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