西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#25
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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#25

第四章
End Of A Century

★前回の話はこちら。
※本連載は第25回です。最初から読む方はこちら。

 少年時代から強迫観念のように自分を蝕み続けていた「仲間と組んだバンドで CD をリリースする」という夢と、「プロのミュージシャンになる」という夢が、どうやら同じようで違うことに僕はようやく気がつき始めていた。ほんの少し前までは「まず CD さえ出せればいい」と、それが叶えば死んでもいいなどと心から思っていたはずなのに。「今」は一瞬で過去になり、未来しか残らない。大切なのはその先だった。23歳の僕には、続いてゆく明日の連なりのすべてが仰ぎ見ても頭頂部の見えない果てしなく巨大な石像のように思えた。下北沢で出会ったギターバンド・シーンの先輩達の大半は、ライブハウスを満員にしていても、CD をリリースしていてもバイトや仕事を続けている。もちろん生活費を確保しているからこそ好きな音楽を誰にも指図されず、純粋なままで続けることが可能なんだという彼らの言い分に憧れた時期もあった。しかし、実際にインディーズ・レーベルと契約をし、スタジオでレコーディングを始め、リハーサルをし、雑誌の取材などを受ける日々が訪れてみると音楽だけに人生の時間を注ぎ込みたいと僕は考えるようになる。自分は器用に社会生活と音楽活動、二足の草鞋が履けるタイプではない。

 CD が売れに売れている時代。インディーズ・アーティストはメジャー・レーベルによる青田買いの格好の的だ。ライブハウスには、ディレクターやスカウトが名刺をばらまきに訪れる。彼らレコードマンは海千山千のギャンブラー。美味しい話をバンドマンやアーティストに酒の席で持ちかけたとして、それが確実に実行されるわけではない。一寸先は闇。せっかく組んだバンドを守るためには、鎧のような自惚れやエゴも必要。わがまま、不遜な態度で離れてゆく程度の関係ならばそれまでと自分に言い聞かせ様々な交渉に挑んだ。誰とどのタイミングで出会うのか。運こそが実力でもある。

 1996年末に最初のCD《SIDECAR》がリリースされ、タワーレコードのインディーズ・チャートで首位を記録。少なくともそれまでの自分の人生の中で訪れた最も大きなお祭り騒ぎの中で、勝負の年、1997年が到来する。この頃、音楽の道を目指した友人の中にどんどん結果を出す者も増えてきた。中でも一番驚いたのが大学で同じクラスだった小柄な女子、朝日美穂がリットーミュージックが主催する「AXIAアーティストオーディション」で優秀賞、サウンド&レコーディング賞を獲得し、ミニ・アルバム《Apeiron》をリリースしたことだ。噂によれば彼女は SONY との契約も決まりメジャー・デビューが約束されているという。アナログ7インチ・シングルとしてもリカットされた〈MELT IN BLUE〉を、白と紺のボーダーシャツを着た彼女からプレゼントされた僕は想像以上の破壊力に度肝を抜かれる。

「G・ラヴ的というか、ベン・フォールズ・ファイヴというか、ベック的というか……。ともかく今っぽいローファイでザラついたサウンドに、朝日ちゃんのピアノとオリジナルのヴォーカルが乗ってて。めちゃくちゃカッコ良かった……」

「ありがとう、嬉しい!」

「あれ? でも朝日ちゃん、教育実習行ってたよね? 確か」

「そうそう、6月に、ふふ。本当に先生になるつもりだったから。でも、帰ってきたら高橋健太郎さんから連絡が来てね」

「あぁ、あの? 音楽評論家の」

「うん、健太郎さんがプロデューサーなんだ。インディー盤がちゃんと作れるって、それだけでも嬉しいじゃない?」

「そりゃ、そうやわ」

「そうしたら、メジャーも決まっちゃってというか」

 少し時は戻るが、96年3月に大学を卒業してからすぐ、僕は仲の良い年上の女性アキさんから紹介されたバイトを始めていた。彼女が常連だった吉祥寺駅そばの「コパンコパン」というイタリア料理店で、お皿を洗ったり、メニュー伺いをしたり、ウェイターをしたりという仕事をやってみないかと誘われたのだ。軌道に乗り始めたバンド活動の合間に何もお金を稼がないわけにもいかないと始めたバイトだったが、そこで自分の思う以上の集中力の無さ、無能ぶりに困惑した。イタリア料理はメニューが細々多数あり、次々にテーブルに呼ばれ食べ物やドリンクをオーダーされるのだが、ともかく僕は上の空、注意散漫で必ず何かを抜け落としてしまう。OL のお姉さん方がグループで訪れることの多い店だったので、フレンドリーに冗談などを言って彼女達を笑わせたりするのは楽しいし得意だったのだが、大切な場所でのオーダー・ミスが連発してシェフに怒られることが日常茶飯事。お客さんが帰るときは店員揃って「ありがとうございましたー!」と大声で口々に挨拶するのがルールだったが、よっぽど心の奥底で帰りたかったのか僕だけ皿を洗いながら「失礼しまーす!」とひとり大声で叫んでしまったこともある。「そんなに帰りたいなら帰ってもいいぞ」と呆れられたが、次第に先輩たちからの叱咤は同情のような声色に変わっていった。毎晩片付けを終え、終電ギリギリで吉祥寺駅まで猛ダッシュ。住んでいた高円寺駅までの総武線を待つそのホームで、あまりにも自分の置かれた状況がどん詰まりに思え、苦し紛れに鼻歌で歌ったメロディは、後に〈Underground〉という楽曲となり NONA REEVES のインディーズ・レーベルからのセカンド・アルバム《QUICKLY》に収められることとなる。

 山下達郎マニアで数千枚のレコードを所有するシェフ、ヤスオさんを筆頭に、皆スタッフはプライベートでも優しかったし、まかない料理は本当に美味しかったのだが自分の居場所はここではない。夏が来る前にバイトは辞めた。ちなみにヤスオさんは僕がバイトを辞めてすぐ独立し、下北沢に「南欧食堂 Pavarotti」という自分の店を構えることになる。この時、凸版印刷で培った Mac を使ったデザインの腕を買われ、店の前に掲げる看板のパバロッティのイラストとメニューのデザインを彼は僕に依頼してくれた。デザイナー仕事としてお金もきちんとくれたので、まだミュージシャンとして稼げていなかった僕はとても助かった。ただ、店がスタートした1996年の秋頃から僕が下北沢に足を運ぶことが急激に減ったこともあり、次第にヤスオさんとは疎遠になってしまった。仲良くしてもらっていた当時、彼は40代前半。バイクの後ろに乗せてくれて一緒に新しい店舗予定地を見に行ったことを思い出す。長年の夢をまさに叶えようとする姿を若造の僕に見せるヤスオさんは誇らしげで本当に嬉しそうだった。

 1997年5月。大きな衝撃が僕を襲う。それは「キリンジ」という不思議な名前のグループとの出会いだった。CD のスタートボタンを押して流れた〈風を撃て〉。そのあまりにも高い楽曲クオリティと、美しく凛とした声の響き、クレジットに記された堀込泰行という名前を見て、僕はやわらかいため息をつく。彼こそは僕が下北沢に足を運ぶ以前、1993年から一方的に追いかけ続けてきた「ライバル」だったからだ。当時、バンドが組めず、ドラマーを探していた僕がようやく見つけたのが同じ学部に通う同級生、小林克己。高田馬場駅前の松屋でバイトをしていた色黒で優しい目をした男前の彼に、僕は自分のバンドに加入して欲しいと懇願。携帯電話などほとんどの若者が持っていない時代だったからバイト先に顔を出すのが一番手っ取り早いのだが向こうからしたら逃げ場はない。通い詰め、毎回、牛焼肉定食を食べて帰る僕のあまりの執念に根負けした彼はこう言った。

「俺、高校時代の友達と組んでいるメインのバンドがあって。そっちを疎かにしたくない」

「うん」

「その活動を優先して、ゴータのバンドがあくまでも2番目、空いた時間でいい? それなら」

 僕は歓喜した。克己は当時昭島市に住んでいて、電車が無くなると僕の東中野のマンションに泊まりに来ることが何度かあった。彼とじっくり話せるチャンス。部屋に来てくれることが嬉しかった。そんなある夜、彼がふとこんなことを言った。

「あー、そう言えば、もう1個やってるバンドのヴォーカルがデモテープくれたんだ。今、カバンに入ってるよ。聴いてみる?」

「え? めっちゃ興味ある」

 僕は動揺して答えた。ドラマー小林克己をソングライターとして共有している自分にとって競争相手のデモテープ。まだ会ったことのない彼はどんな声で歌い、どんな曲を作る男なのか。〈村の酒場〉と奇妙なタイトルが書かれたカセットテープをおもむろに克己から受け取った僕は、デッキに滑り込ませてスタートボタンを押した。3分後……。ソロになったレノン=マッカートニーを改めて日本で融合したようなメロディラインと遊び心、何よりその歌声の素晴らしさにひれ伏し一瞬でファンになってしまった自分がそこにいた。東京という街の広さ、深さをこれほど感じたことはそれまでない。よくこんな凄いシンガーとドラマーを奪い合おうなどと思ったものだ。こんな近くに天才がいるならば、どれほどの天才がこの街には蠢いているのかと気が遠くなった。克己の高校時代からの親友で〈村の酒場〉なる楽曲を歌う男の名は、堀込泰行……。

 僕が下北沢に向かい新たなバンド活動をスタートさせ軌道に乗せた期間に、小林克己と堀込君とのバンドは解散したと聞いていた。しかし、なんと彼は実の兄とバンドを組み、あまりにも素晴らしいミニ・アルバムを武器に音楽マニアを震撼させ始めていたのだ。僕も止まるわけにはいかない。何とか前進するしかなかった。選択肢が無限にあることが楽しみでもあり怖かった……。堀込君とはその後互いにメジャー・デビューを決めたレーベル、ワーナーミュージック・ジャパンで再会することとなる。

★第26回を読む。

★今回の1曲ーーキリンジ - 双子座グラフィティ (1998)




■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
現在 Amazon Music Podcast「西寺郷太の最高!ファンクラブ」でホストを務める。
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