小説「観月 KANGETSU」#23 麻生幾
第23話
参考人聴取(1)
★前回の話はこちら
※本連載は第23話です。最初から読む方はこちら。
「別府発最終の普通電車でしたので、杵築駅で降りた時間は、午後10時18分。何度か利用したことがありますので間違いありません」
七海が間を置かずに答えた。
「で、まっすぐ自宅に向かわれた?」
睨み付けるような雰囲気で正木が訊いた。
「はい」
七海は正木の目をじっと見つめた。
正木は、涼から手渡された紙を七海の前に広げた。
「ここがあんたん自宅じゃなあ?」
正木は、住宅地図の、「塩屋(しおや)の坂」の上にある、一軒の家を指さした。
「ええ」
七海は小さく答えた。
「こん近くじゃなあ、襲撃されたんな」
正木は七海の自宅から少し離れた地点を指し示した。
「何があったんか、詳しく教えちくりい」
七海は、涼に怪訝な表情を送った。
その経緯については、すでに涼に話していたからだ。
「こりゃ雑談じゃねえで、参考人聴取や。やけん、あんたがそん時、被害届を出されんかったけん、今回、正式に、あんたからお聞きしてえんや」
正木は、その七海の気持ちを察したように先んじて言った。
七海は、腹立たしい思いとなって溜息が出そうだった。
しかも、襲撃、などと過激な言葉も使って欲しくなかった。ここに来たのは、涼の立場を考えてのことだったが、やはり来るべきじゃなかったと七海は早くも後悔していた。
しかし、七海は気を取り直した。これが済まないとことにはここから立ち去れない、という現実を見つめた。
「仰っしゃる通り、自宅から、約70メートル手前、こん角を徒歩で曲がったところで、正体不明ん男が突然、姿を現しました」
七海は地図を示しながら説明した。
部屋の隅に座る男が操作するパソコンのキーボード音が静かな部屋に響いている。七海は、そのことになぜか不気味な感触を抱いた。
「なし(どうして)男やと?」
正木が訊いた。
「髪の毛が、しんけん(すごく)薄かかったことと……その雰囲気からと言うか……」
七海の声が小さくなった。
「髪が薄い? 年配の男、そげなことか?」
正木が畳み掛けた。
「いえ、そこまでは……。相手は、サングラスをしていた上に、なんかなし(とにかく)暗かったので……ただ……」
七海は、急にそのことを思い出した。
「そうだ、男の顔が近づいた時、その臭いを嗅ぎました。それは、なにか、そう、父がつけていたような、昔風ヘアトニックの香りがしました」
「お父さんが?」
正木がふとそう訊いた。
「彼女のお父さんは、23年前、病気じ亡くなっちいまして――」
涼が口を挟んだ。
正木は険しい表情を涼に向けた。
慌てた涼は首を竦めて頭を下げた。
「昔風ヘアトニック臭え、についち、もうちいと詳しゅう教えてもらえんか?」
正木がそう言って腕組みをした。
「なにか噎(む)せ返るような……ちょっとスマホで検索しちみていいですか?」
黙って頷いた正木の様子を確認した七海は、頭に浮かんだキーワードをグーグルの検索ボックスに書き込んだ。
「あっ、これの臭いです。昔、父が使っていたものと同じです。その男が実際に使うちょった商品はこれやないかもしれませんが、“こげなたぐい”の臭いでした」
七海は、スマートフォンの画面を正木に見せた。
「資生堂のブラバス……ああ、あったなぁ、昔――。なるほど」
正木は納得した風に頷いた。
「それで、そん男は、襲いかかっち時、乱暴なことをしたかえ?」
正木が訊いた。
「えっ? いえ、何も、ありません」
「手を掴まれたり、体を押しつけられたりも?」
正木の右眉が上がった。
「ありません」
七海が答えた。
「飛びかかろうとするようなこたあ?」
「それはありました。やけん、襲われそうになった、そう言ったじゃありませんか」
七海は不満げにそう言った。
「なし、警察に届けを?」
「ですから、乱暴をされていないのでその必要ないかと――」
(続く)
★第24話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生まれ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
【編集部よりお知らせ】
文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「#みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「#みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!
▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!