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田嶋陽子さんのおふくろの話。

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、田嶋陽子さん(女性学研究者・元法政大学教授)です。

母もまたフェミニストだった

母の初枝は1917年、新潟の山村に生まれた。よく、裕福な実家の自慢話をしながら、最後には必ず「学校さえ、出してもらっていたらねぇ」と嘆いた。

母は女学校はおろか、尋常小学校さえまともに通わせてもらえなかった。弟を背負って登校し、弟が泣くと先生に用務員室へ追いやられた。

戦争中、父が召集され、母と私は親戚の家の居候となる。母はそこでの屈辱的な体験から「女は手に職を」の教訓を学び、それを私の教育に生かした。

父が復員し、弟が生まれ、これから幸せというとき、母は脊椎カリエスになる。死の宣告を受けた母は私の将来を案じ、「手に職を」をモットーにスパルタ教育を始めた。石皿のようなコルセットの上に仰向けに寝たまま動けない母は、手に持った2尺物差しの届くところに私を座らせ、教科書を暗唱させ、できないと叩いた。私はあの頃の母のスパルタ教育のおかげで、今こうしてひとり立ちして生きていられる。

ただ、私はお転婆で体が大きく、普通のかわいい女の子と違っていたことで母を困らせた。母は「小さく小さく女になあれ」とばかり、私の一挙手一投足にダメ出しをした。それをまじめに聞いていた私は、大人になると、無理してハイヒールを履いて腰を痛めた。心を病んでいたのだ。母の縛りから自分を解放したとき、私は46歳になっていた。母は女らしさの社会規範が人間にどんな害を及ぼすのか、よくわかっていなかったのだ。

忘れられない母のつぶやきが2つある。ある日、流し台の前で泣いていた母が「なんでお母さんばっかり茶碗のおしりを撫でてなきゃいけないの」と言った。私は心の中で「だってお母さんて、お茶碗を洗う人なんでしょ?」とつぶやいた。私は小学生にしてすでに性別役割分担を学習し、フェミニストたる母の敵になっていたのだ。

父は献身的に母の看病をし、母はそんな父に感謝していた。ある日「お父さんみたいにいい人はこの世に2人といないわ」と言う母に、私はふざけて「じゃ、また結婚するならお父さんがいい?」ときくと、母は真顔になって「結婚だけはごめんだね」と言った。

女は、本来、教育があろうとなかろうと、みんな生まれながらのフェミニストだと思う。男社会の規範に搦め捕られるまでは。

(2020年8月号掲載)

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