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保阪正康『日本の地下水脈』|「反体制運動の源流」

昭和史研究家の保阪正康が、日本の近現代が歩んだ150年を再検証。歴史のあらゆる場面で顔を出す「地下水脈」を辿ることで、何が見えてくるのか。今回のテーマは「反体制運動の源流」。対露強硬派が支持を集める一方、社会主義運動は弾圧され、地下水脈化してゆく——。/構成・栗原俊雄(毎日新聞記者)

保阪

保阪氏

三国干渉の衝撃

前回まで見たように、維新で誕生した明治政府は当初から西欧のような帝国主義国家としての道を主体的に目指していたわけではなかった。列強の侵略から日本を守るために場当たり的な対処を重ねるうちに、無自覚的に帝国主義への道を踏み出したのだ。そして主体的に帝国主義への道を歩き出したのは日清戦争に勝利した後、とりわけ三国干渉から日露戦争にかけての時期であった。

日清戦争後、列強は清に続々と進出し、戦勝国である日本よりも旨味のある権益を手中に収めていった。日本にとって衝撃だったのは、ロシアが遼東半島の旅順と大連を租借したことだ。同半島は日本が清から割譲されたが、ロシア、フランス、ドイツからの三国干渉に遭い、清に返還していた地域である。ロシアはそこを自国の権益にしてしまった。しかも同半島は日本の「利益線」である朝鮮半島の付け根に位置し、戦略的に非常に重要な地域である。

三国干渉は、明治20年代後半から30年代の知識人にも大きな衝撃を与えた。近代日本言論界の巨人、徳富蘇峰もその一人だ。「平民主義」の立場から政府を厳しく批判していた蘇峰が、国権論者へと変貌するきっかけともなった。のちに蘇峰はこう振り返っている。

「この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にほとんど別人となった。而してこれと云うも畢竟すれば、力が足らぬゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった」(「蘇峰自伝」)

国は強くなければならない。いくら道義的には正しくても、力が無ければ不条理に見舞われる。逆に力があれば、横車を押しとおせる。国際社会の現実を痛感した蘇峰は、三国干渉によって日本は「力の福音」の洗礼を受けた、と表現している。

その後、蘇峰は欧米を視察し列強の現状を学んだ。帰国後は時の松方正義内閣で内務省勅任参事官となった。松方は薩摩閥だ。かつて藩閥政治を批判していた蘇峰だけに「変節」という批判も受けたが、国を強くするためにはやむを得ないとの信念があったのだろう。

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徳富蘇峰

労働運動、社会運動の勃興

日清戦争によって得た巨額の賠償金は、産業振興に用いられた。工業化が進むにつれて、都市での賃金労働者も増加した。その多くが農家の次男三男や女子などで、地方の限られた耕地では抱えきれない労働力を都市が吸収していった。しかし同時代の欧米と比較すると、日本の労働者ははるかに低い賃金で過酷な労働を強いられていた。

また産業が急速に近代化するにつれ、公害問題も顕在化してきた。象徴的なのが足尾銅山鉱毒事件だ。

栃木県足尾町(現日光市)にある足尾銅山は、江戸時代初期から幕府の直営で採掘されていたが、幕末には鉱脈が枯渇し、明治初期、民間に払い下げられていたのを実業家の古河市兵衛が買収。古河は最新の洋式機械で採掘を進めたところ、新たな鉱脈の発見が相次ぎ、銅の産出は飛躍的に増えた。銅は極めて重要な戦略物資で、軍備増強を進める日本にとっては不可欠であった。銅山は活況を呈したが、製錬の過程で生じる重金属を含んだ鉱滓を渡良瀬川に事実上垂れ流した。そのため、流域の住民が甚大な鉱毒被害を受けた。

これに立ち上がったのは、栃木県出身の田中正造代議士である。第1回衆議院総選挙で当選した田中は地元の被害者たちと、鉱毒除去や鉱山の操業停止などを政府に求めたが、被害は収まらなかった。明治33(1900)年2月13日、政府への請願のために集団で上京しようとした被害者たちおよそ2500人が、群馬県佐貫村川俣(現明和町)で警官隊と衝突し、百余人が逮捕された(川俣事件)。田中は帝国議会でたびたび鉱毒問題を取り上げ、政府に改善を迫ったが、政府は動かなかった。

明治34年12月10日、代議士を辞していた田中は明治天皇への直訴を試みた。日比谷付近で明治天皇の乗った馬車の車列に向かって飛び出し、直訴状を手渡そうとしたのである。田中は取り押さえられ、直訴は失敗した。だが、救援運動が全国に広がった。政府もこれをきっかけに、洪水対策や鉱毒を沈殿させるための遊水池を作ることを決定した。渡良瀬川沿岸の谷中村をその地とし、村民の反対を押し切って廃村とさせた。

足尾銅山鉱毒事件は、思想というより庶民の生活に根差した反体制運動であった。鉱毒事件では、内村鑑三ら知識人も被害者住民を支援していた。発展する帝国主義の内部で、その歪みの犠牲になる国民たちの存在が顕在化してきたのだ。この機運は大正の米騒動につながってゆくともいえる。

これに対して、思想にもとづく労働運動や社会運動も高まってきた。明治31(1898)年には幸徳秋水や安部磯雄、片山潜らによって社会主義研究会が結成された。同会は「社会主義の原理と之を日本に応用するの可否を考究するを目的とす」として設立された団体で、社会主義の研究や討論を行った。この会を母体として明治34(1901)年には社会民主党が結成された。日本で初めての社会主義を目指す政党であった。

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田中正造

第2世代の官僚たち

政府に目を転じれば、幕末明治維新を起こした第1世代に代わって、第2世代の官僚が政治や軍事の中枢で台頭してきた。具体的には、桂太郎、陸奥宗光、小村寿太郎や大山巌、児玉源太郎らである。第1世代は列強による日本侵略の可能性を肌で感じてきた世代であり、帝国主義の矛盾に対する自省的観念も持ち合わせていた。だが第2世代は、最初から帝国主義的な枠組みのなかで育っており、帝国主義的国家戦略を所与のものとして、それをさらに発展させようとの傾向が強かった。彼らによって、日本は無自覚的な帝国主義から、自覚的な帝国主義へと変容して行ったのである。

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