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西川美和 ハコウマに乗って11 ついのふうけい

ついのふうけい

実家の隣に暮らす96歳の伯母は、認知症の影響で新しい情報をほとんど覚えられないということを以前紹介させてもらったことがある。

普通に会話でき、長く体に染み付いた日常生活は几帳面に送れるが、私が帰省した折は、表で会うたびに「あら! 帰ったの?」と毎日驚き、かかさず新聞を読み、1日中テレビをつけっぱなしにしていても、「コロナ」という新語が本人の口から発されることはなかった。

その伯母が今年の4月、余命半年と診断され、宣告にほぼ狂いなく先日亡くなった。子供がなく、夫も他界して長く一人暮らしだったので、私の母が週に一度スーパーへ買い出しに連れ出すのが習慣だったが、「今日は行かなくていい」と断ることが春先に2度続き、「めっきり痩せたな」と思ってかかりつけ医に診せたら広がったがんで肺がもう真っ白だった。

ふた月ほどは訪問診療と我が家からの食事の差し入れで様子を見たが、足が立たずに家の中で座り込んでいることも増え、入浴や用便がままならなくなる前に、と初夏には病院併設の施設に入所させた。積極的治療はしない方針を医師に伝え、本人にはもう病についても話さなかった。伯母はなぜ施設に寝泊まりしているのか理解しておらず、「帰らなければ」と思っているらしかったが、なにしろ記憶が積み重ならないので、いつでも昨日来たばかりのような感覚でいた。「足が立つようになるまではここにいようね」と言うと「なるほどね」と納得して見せるのが何となく切なかった。足さえ立つようになればまた自宅で元の自活をせねばならないものと思い込んでいるようだった。入所の直前、伯母宅で小さく切ったチラシの裏のメモを見つけたことがある。「入院するらしい。気が重い」と細い字でしたためられていた。書き留めておかねばその気の重ささえ忘れてしまうと思ったのか。喜びもかなしみも、記憶の貯蔵庫に定着されなければ「思い」にはならないのかもしれない。そして人間は、幸福だけでなく辛いことや苦しいことも、失わずに自分の中に留めておきたいと願うのはなぜなのだろう。介護関係者の人々はみな親切で、あらゆる手を尽くして迎えると約束してくれていた。私は伯母に、どうか悪く受け止めず、安心して残りの日々を過ごしてほしかった。見つけたメモを返さなかった。

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