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イップスの正体|#5 佐藤信人(ゴルファー)

「パットの名手」と呼ばれた佐藤信人の名前が、日本ゴルフ界でぱたりと聞かれなくなったのは2003年以降のことである。佐藤は1997年から2002年にかけ9勝を挙げ、瞬く間にトッププロの仲間入りを果たす。しかし黄金期は、あっけなく終焉した。佐藤は「はっきり覚えているのは、2003年のANAオープン。パットの時、『あ、手が動かない』って」と回想する。そこからイップスとの格闘が始まり、たびたび「手から先をぶった切りたい」という衝動にかられるようになる。成績は徐々に下降線をたどり、2010年にはついにレギュラーツアーのシード権を失った。2012年に一度はシード選手に返り咲いたものの、その年の秋に再びシード落ち。2014年を最後にレギュラーツアーから離れた。つまりは、事実上の引退だ。そんな佐藤が2020年、50歳になったのを機に、シニアツアーに参戦。忘れかけていたイップス苦をしばらくぶりに味わった。20年近くイップスと付き合ってきた佐藤が五十路に入りたどり着いたイップス論を語る。

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佐藤信人

——単刀直入におうかがいしますが、なぜ、また試合に出ようと思ったのですか。

佐藤 レギュラーツアーで一定以上の成績を残していると、無条件で1年間、シニアツアーに出られるんですよ。50歳になってシニアツアーの参加資格を得た時、せっかくチャンスがあるのに、それを行使しないのはどうなのかなと思って。それと今は、解説業を柱として、試合に出なくても生活できるようになった。つまり、生活がかかってない状態で試合をすれば、ひょっとしたら、うまくできるんじゃないかという自分への期待感もあったんです。周りの仲間も、「シニアは気楽で楽しいよ」と言っていましたし。

——それで、実際はいかがだったのでしょうか。それだけブランクがあれば、知らぬ間に嫌な記憶を忘れ、うまくいきそうな気もします。実際、イップスでは、そんな話もよく聞きますよね。ちなみに、昨シーズン、シニアでの成績は6戦して、最高戦績は初戦の43位でした。したがって、シニアのシード権は得られなかったわけですよね。

佐藤 初戦は久しぶりの試合だったので、自分の中で超ハードルが低かった。完走できればいいやというか、ビリにさえならなければいいや、ぐらいの感じで。なので、割と満足な結果だったんです。予選落ちのない大会だったのもよかった。でも、2戦目は2ラウンド後にカット(予選落ち)のある試合だった。そうしたら、初日はまあまあだったんだけど、2日目に「予選を通りたい」という意識が働いた瞬間、もう手が動かなかった。2日目はメタメタで、久々に打ちのめされました。シニアになったら、もうちょっと気楽にできるのかと思いましたが、僕の場合は、それはほとんどなかった。やっぱり思うようにならないというか、なんでちゃんとできねえんだろう、って。

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——佐藤さんには2009年くらいから継続的に取材をさせていただいていて、最初の頃、私は「イップスは治らないもの」だと決め込んでいました。治ったという話を聞いても、それはイップスではなかったのだと解釈していました。でも今、その考え方はかなり変化してきていて、「イップス」など実は存在しないのではないかと思い始めています。世の中でイップスと呼ばれているものは、ものすごく大きな括りで言うと、「下手になった」とか「調子を落とした」という状態の、程度のひどいものに過ぎないのではないか、と。佐藤さんは20年近くイップスと呼ばれるものと付き合ってきて、結局のところ、イップスとは何だと思われますか。

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