小説「観月 KANGETSU」#26 麻生幾
第26話
参考人聴取(4)
★前回の話はこちら
※本連載は第26話です。最初から読む方はこちら。
「最後に一つだけお聞きしてえことがあるんや」
ゆっくりとパイプ椅子に腰を落とした正木が七海を見つめた。
「どうぞ」
七海は、仕方ないという風に首を竦めてみせた。
「我々は、殺された熊坂久美さんが交友されちきた人すべてリストアップし、それぞれ捜査員を担当させちょん」
七海は黙って聞いていた。
「一番近え関係者である、夫の熊坂洋平さんも当然、そん一人。その熊坂洋平さんの担当が、わしと彼や」
正木はじっと七海を見据えた。
七海はその視線から逃れられない自分を自覚した。
これが眼力というものだろうか、まるで自分が、ハンターに追い込まれた獲物のような感覚に襲われていた。
「やけん、熊坂洋平さんのことを、すべて、知りてえんや。やけん、あんたとお母さんな、熊坂さんご夫婦と家族ぐるみん付き合いしちょったちゅうけん、頼む」
「わ、わかりました。それで、最後にお聞きになりたいということは?」
七海が聞いた。
「熊坂洋平んことで、これまで、何か、妙やら、不思議やら、なしなんか(なぜなのか)やら、そういったことを感じられた記憶がねえか?」
七海は、正木が何を言っているのかすぐには理解できなかった。
「質問を変えよう」
七海の気持ちを悟った正木が続けた。
「あんたから見た熊坂洋平さん、どげな方やった?」
七海は記憶を辿った。
真っ先に脳裡に蘇ったのは、いかにも人がよさそうな笑顔だ。私はずっと昔から、その笑顔が好きだった、と七海は思い出した。
七海は、様々な映像を脳裡に蘇らせた。
小学生の時、学校から帰宅する途中、偶然出会った熊坂さんは、チョコレートのコロネをくれた時があった。七海が今でも覚えているのは、コロネの味じゃなく、その時の熊坂さんの笑顔だった。
また、こんなこともあった。高校生の部活で遅くなった時、駅からの暗い道を歩いている自分を見つけてくれ、一人歩きは危ないよ、と軽トラックに乗せてくれた熊坂さんの笑顔――。
軽トラックで私の自宅までパンを運んで来られた時は必ず、仕事頑張ってる? とか、カレシと上手くやってる? とか、明るい表情で声をかけてくれた。また、母にも、体でどっか悪いところはない? などと声をかけ、いつも気に掛けてくれてきた。
だから、正木という刑事が聞くような、そんな、妙なことなんて……。
「何か思い出したね?」
正木が目を見開いて訊いた。
七海は苦笑する思いだった。
この正木という刑事さん、眼力だけでなく、洞察力も強いのか――。七海は呆れるしかなかった。
「そう言われても、具体的に……なにか……特別なこと……そげなことではなくて……」
七海が辿々しく言った。
しかし、正木は黙って見つめている。
「ただ……熊坂さん……いつも私たちの近くにいてくださった……」
七海は、今更ながら、そんな言葉が口から出た自分に驚いた。
「なら、亡くなったお父さんの代わりんような存在に?」
正木が訊いた。
「いえ、そげな感じじゃなくて……。昔から、ずっと見守ってくださった、それが単なる気配りというよりは、もっと、大きな力、いえ、全力じ支えちくださっちょん、そげな風に……」
七海は言葉を切った。自分でも上手く表現ができない、と思ったからだ。
「では、この23年の間、気になることあ何もねえと?」
正木が抑揚のない口調で言った。
そんなひと言で片付けて欲しくない、と七海は思った。
熊坂さんと奥さんと、私たち家族の関係は簡単な言葉ではとても……。
その時、七海は、そのことに気づいてハッとした表情で正木を見つめた。
「でも、なしそげなことを? まさか、本気で、熊坂さんが、と?」
七海は正木に詰め寄った。
正木は無表情で黙ったままだった。
「違う! あんしは、奥さんを殺すような人じゃ絶対にねえ!」
七海は涼に視線を向けた。
「いつも言っちょんよね? 熊坂さんちゅう方がどれだけ素晴らしい人か――」
(続く)
★第27話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生まれ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
【編集部よりお知らせ】
文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「#みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「#みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!
▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!