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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#20

第三章
Distortion And Me

★前回の話はこちら。
※本連載は第20回です。最初から読む方はこちら。


 1995年11月25日土曜日、夕刻。

 僕は、タワーレコード新宿東口店の試聴機前にいた。大展開されていたのは、サニーデイ・サービスが発売したばかりのシングルEP〈恋におちたら〉。この時期には知り合いや先輩たちの CD がレコードショップに並んでいたとしても驚くことはなくなったが、4月21日のファースト・アルバム《若者たち》、そして7月21日のシングル〈青春狂走曲〉と続く名作ラッシュで新世代の旗手としての地位を確立したサニーデイのプッシュのされ方は尋常ではなかった。

 この年の春、下北沢という竜宮城のような町に僕が本格的に足を踏み入れてから約8ヶ月の間、「曽我部恵一」を巡るメディアの絶賛とマニアの熱狂は日に日に加速度を上げていた。ただし、エレクトリック・グラス・バルーンや、PEALOUT、そして東京という無限に広がる泥沼の中でもがいていた自分を次のステージへと導いてくれた「メンター」湧井正則さんを中心とする STARWAGON を熱く支持していた僕は、「下北沢ギターポップ・シーン」を飛び越え巨大化する一方の「曽我部恵一」の才能にまで心酔してしまうのはあまりにも調子が良すぎる気がして、この日まで勝手に一歩引いていた。

 大学最終学年の僕が単位取得のため足繁く授業に通い、真夜中にはいつもの音楽仲間や先輩と下北沢で飲み語らっていたこの秋。サニーデイ・サービスは翌96年2月21日に《東京》と名付けられて発売されることになるセカンド・アルバム、仮タイトル《96粒の涙》のため、平塚のフリースタジオ湘南でレコーディングに打ち込んでいた。ここしばらくの間に、すでに曽我部さんはロック雑誌やCDショップなど「メディアの向こう側」にいるカリスマとなっていた。東京出身で身につけるものも趣味がよく優しい先輩たちが多かった下北沢で、曽我部さんは珍しくそのビッグマウスで他者への闘志を剥き出しにし、情熱を胸に乱反射させる純然たる姿勢で音楽に対峙していた。彼の凍った瞳に宿る美しき諦観とほとばしる創作欲は僕にとって、ある種の恐怖でもあった。それはまだ確固たる自分が形成されていない状態の僕には太刀打ち出来ないほどのパワーだったから……。僕は無意識に自分の心と身を守るため、曽我部恵一という圧倒的な存在の引力に飲み込まれまいとストップをかけていたのだと思う。世話になっている先輩達の肩を持つフリをしながら。

 しかし、ニュー・シングル〈恋におちたら〉のディスプレイをタワーレコード新宿東口店で見つけた瞬間、時は来たと感じた。逃げては前に進めはしない。ヘッドフォンをかけ、ヴォリュームを最大にしてパッケージを手に取り、ディスクの数字を入念に確かめた上で僕はスタート・ボタンを押した。田中貴さんが奏でるベースの「A」音の繰り返し。そこにシンプルかつ独特の間を放つ丸山晴茂さんのビートが重なってゆく。二人のリズム・セクションはお世辞にもセッション・ミュージシャンのような流麗なタイム感を刻まない。むしろ、その逆だ。しかし、スネアやキック、べースがそのゼロコンマ数秒、前後左右に常に揺れる不安定なグルーヴの隙間、正しくあるべきポイントを全身全霊で追いかけるたび、嘘のように胸の奥が掻きむしられてゆく自分に気づくのだった。

 ほんの少し前に雑誌「Bar-f-Out!(バァフアウト!)」を読んで、印象に残った曽我部さんの言葉の一つが「下手くそ感は出したかった」というもの。僕にはまったくそんな発想はなかった。ザ・バンドの3枚目《ステージ・フライト》を例に挙げて、ミスっているのを残しているから、かえってそれが「バンドが演奏しているぞ」っていう体温として伝わる、と彼は語っていた。まさにその狙い通りだ。最終局面、曽我部さんが奏でるそれこそミスかと思うほど一度パツンとつっかえたアコースティック・ギターのフレーズでアウトロが終わる頃には、その圧倒的な音世界に僕は膝をついてしまうほど心をえぐられていた。この人は凄い……。少なくとも自分がプロになるまでは、もう絶対にサニーデイは聴かない。近づいてはいけない。僕は、店内でひとり唸り、そう心に誓った。曽我部さんはわずか1年足らずで自分を取り巻く世界を変えようとしていた。

 6434人が亡くなった1月17日の阪神・淡路大震災と、3月20日のオウム真理教による地下鉄サリン事件とオウム騒動の余波。1995年はそれまで安心安全、絶対とされた価値観がことごとく揺らぐ、日本にとっても激動の年だった。スポーツ界にも既成概念を打ち破る大きな変化が訪れていた。所属した近鉄バファローズの鈴木啓示監督から「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」などと暴言を吐かれた野茂英雄投手が、新天地であるロサンゼルス・ドジャーズへ移籍。日本人二人目のメジャーリーガーとなった彼は、オールスターゲームに初選出され先発投手を務めたほか、ナショナル・リーグの新人王にも選ばれるほどの大活躍を果たす。球団、体制側の肩を持ち一時期野茂投手を孤立させたはずのマスコミは、あっという間に掌を返した。

 
 前年に登録名を「鈴木一朗」からカタカナ名前に変更した自分と同い年のイチロー選手が21歳にして「首位打者」「最多安打」「打点王」「盗塁王」「最高出塁率」、前代未聞の「打者5冠王」を獲得したのも僕にとって衝撃だった。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた本拠地・神戸のために「がんばろうKOBE」というスローガンを打ち出した仰木彬監督率いるオリックス・ブルーウェーブはリーグ優勝を果たした。

 何が起こってもおかしくはない。後2日で、22歳の誕生日を迎える僕自身を巡る状況も夏の初めからは随分変化していた。まずは、人生で初めてバンドらしき形態が遂に組めたこと。ドンちゃんに誘ってもらった下北沢 CLUB Que での10月28日のイベント・ライヴは成功に終わり、その体験をきっかけにドラムに誘った早稲田大学の音楽サークル「トラベリング・ライト」の同期、小松シゲルが本腰を入れる決心を固めてくれたこと。

 これまで僕自身の最も得意な楽器は吹奏楽部のパーカッション担当として高校時代から続けてきたドラムだった。吹奏楽部での日々の活動は地味そのもの。毎日30分から1時間、週刊少年ジャンプやマガジンをガムテープでぐるぐる巻きにした「仮想スネア」を、メトロノームを聴きながら正確にスティックで四分音符、八分音符、三連符、十六分音符とループさせながらペタペタとヒットし続けるだけ。ただこの面倒臭く地味な基礎練習を3年間続けたせいで、細やかなテクニックはないが最も大切なリズム感だけは異様に磨かれた。高校、大学時代、もちろんバンドでドラムを叩くのは大好きだったが、ギターやピアノのようにシンガー・ソングライターとして、ステージで歌と両立しやすい楽器には思えない。もしも自分がフロントマンとしてバンドを組めることがあるなら、歌っている自分と同じか、それ以上にリズム感覚の鋭いドラマーを探さねばならない。それがバンドを組む上での僕の最大の悩みだった。ヴォーカルの方がドラムよりリズムに関して繊細だと悲劇しか起こらないことを僕はそれまでの活動で身をもって知っていた。

 下北沢のギターポップ・シーンは華やかで素晴らしいドラマーは沢山いたが、小松のようにロック、ソウル、ファンクのスタイルを縦横無尽に叩ける柔軟なドラマーは見つけられなかった。僕にとってタイミングが良かったのは、ちょうど小松がそれまで組んでいたメイン・バンド「ハラショーズ」が夏に解散していたことだ。僕が下北沢に入り浸っている半年間に、それまでヴォーカル、ギター、作詞作曲担当の谷口尚久、ベースの千ヶ崎学、ギターの奥田健介らと共にサークル同期の中で最も精力的に活動し、才能に満ちたメンバー同士で結束しているように見えたバンドが、ヴォーカル谷口の就職と、彼自身のソロ転向の意志もあり活動を停止していたのだ。「小松を誘うなら、今しかない」、そう思った。

 意を決した僕は早朝に彼が深夜バイトを続けていたファミリーマート夏目坂店まで、アメリカン・スタイルの原付 HONDA JAZZ に乗って向かい、しばらく様子を見ながら黙って雑誌を立ち読み。背中を向けて静かに待った。彼の勤務時間が終わろうとする頃、「おう! ちょっと話があんねん、バイト終わったら時間くれへん?」と思い切って勇気を出して声をかけると、突然レジまで変な関西弁の客が来たと思った小松は異常に驚いていた。

 そのまま移動した早稲田駅前のマクドナルドで、久しぶりに会った小松に下北沢ギターポップ・シーンの盛り上がりと自分の置かれた現状を伝え、「気に入ったなら自分のバンドでドラムを叩いて欲しい」と〈自由の小鳥(Bird Song)〉のデモを聴かせた。数ヶ月前に、バイト先の先輩、棚倉さんに聴かせたのとほぼ同じシチュエーションだった。僕が愛用している「DAT・ウォークマン」はこの朝もキュルキュルと静かな音を立てながら、実直に作動してくれた。小松は目を閉じてデモ・テープを聴いていた。曲が終わると、小松はゆっくりとヘッドフォンを外した。そして、言った。

「これ、ゴータが今まで作ってきた曲と全然違うじゃん……」

「え?」

「曲のクオリティが今までとまったく違う。俺……、やるわ」

★今回の1曲ーーサニーデイ・サービス「恋におちたら」(1995年)

■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としてもSMAP、V6、YUKI、岡村靖幸、私立恵比寿中学、「ヒプノシスマイク」など多くの作品、アーティストに携わる。
近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。
代表作に小説『噂のメロディ・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
Spotify公式ポッドキャスト「西寺郷太の GOTOWN Podcast」、毎週日曜更新。
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