見出し画像

追悼・李登輝「日本人より日本人らしく生きた97年」

親日家として日本にも大きな影響を与え続けた台湾の李登輝元総統が亡くなった。台湾の民主化に尽くし、中国共産党の暴虐に抗った一生涯だった。「日本と台湾は運命共同体だからね」。「民主の父」が語っていた日本への思いとは。/文・櫻井よしこ(ジャーナリスト)

「日本精神」

李登輝元総統はお会いする度に豊かな語彙で日本についての思いを語った。傍らで耳を傾ける曽文恵夫人を見ながら言った。

「家内が笑うのですよ。あなたは台湾の総統を12年もしたのに、日本のことばかり心配している、と言って。しかし日本と台湾は運命共同体だからね。日本がよくなれば台湾もよくなる。台湾がよくなれば日本もよくなる」

李登輝氏を台北の御自宅に訪ねた2015年9月18日、氏はこう語り、「僕は生きている限り、台湾と日本の為に尽くす」と明るく相好をくずして、繰り返した。

この言葉どおり、氏は台湾と日本の為に尽くし切ってその一生を完結した。見事である。

②多臓器不全だった

李登輝氏

氏は掛け値なく日本を敬った。そして心底台湾を愛した。宿命として台湾を愛し抜いた。台湾を台湾人の国にし、台湾人の心と気持ちを国の形に反映させること、即ち、台湾民主化こそ、祖国への愛の実現だった。

中国共産党は「ひとつの中国」を確認したとする「92年合意」なるものを喧伝し、台湾を中国の一部だと強弁している。李登輝氏はこれを「総統だった僕の知らない合意なんてあり得ない」と明確に否定した。だが、中国共産党およびそれに追随する国民党外省人たちの圧力の前で、本省人の声をより強く反映させる台湾民主化は言うは易く行うは極めて難い。

ちなみに本省人とは戦前から台湾に暮らす人々を指し、戦後国民党と共に台湾にやってきた人々を外省人と呼ぶ。

李登輝氏はひとつまたひとつと課題を乗り越え、国民党支配の厚い壁を突き崩した。岩のように動かぬ信念を心の中にどっしりと据え、一滴の血も流さず偉業を成し遂げた。偉人にしかできない働きを、氏は如何にして成し遂げたのか。この問いに氏はいつもこう答えた。

「日本精神(リツプンチエンシン)ですよ」と。

日本精神とは、日本統治時代に台湾人が学んだ勇気、誠実、勤勉、奉公、自己犠牲、責任感、清潔の諸々の美点を指す。李登輝氏は日本人が日本精神を失わない限り、日本は世界のリーダーとして発展し続けると強調した。そのとおりであろう。

李登輝氏を李登輝たらしめた日本精神は、氏が度々語ったように、22歳まで日本人として教育され、日本人として生きたことによって育まれた。

旧制台北高等学校に進んだ氏は「いつも生と死について悩んでいた」多感な青年だった。なぜ人間は生き、そして死ぬのか。生と死の意義は何か。李登輝氏は多読の中で西田幾多郎や鈴木大拙に出合う。倉田百三、和辻哲郎、夏目漱石、さらにカント、ヘーゲル、カーライル等に導かれた。

18世紀末にスコットランドで生まれたイギリスの歴史家であり哲学者のトマス・カーライルへの李登輝氏の思い入れ、とりわけ『衣服哲学』への傾倒はどれ程深く泳いでも辿り着けない大海原の海底を目指す苦行のようだ。近づいた、すべての命を生み出した海の底に、もうすぐ手が届き両足で立てる、と思えば、まだ深い。ずっと深い。それでも光は大海を照らして明るい。水中を貫いて澄んでいる。その濁りのない深い海に潜り続けるように若き日の李登輝氏は思索を深めた。

体現した「武士道」

最初にお会いしたときから李登輝氏はカーライルと西田幾多郎を熱心に説いた。1時間が過ぎても語り続けた。余りよく理解できていない私に繰り返し、自身が決定的な影響を受けた2人について、口角泡を飛ばす勢いで語り続けるのだ。心の一番深いところにぎっしり詰まっている思いが熱い息遣いと共に腹から湧き上がってくるように語る。

語る。語る。語る。

その姿は、司馬遼太郎が「旧制高校生のよう」と形容したそのままだ。

李登輝氏はカーライルの『衣服哲学』は谷崎隆昭訳がよいと言ったが、私の手元にはそれ(山口書店、1983年)がある。だが、難解である。日本語でも難解なその書を、李登輝氏は台北高等学校在籍の10代で原書で読んだのである。李登輝氏世代のエリート学生たちのなんと実力のあることか。なんと教養豊かなことか。

こうした学びの先に李登輝氏は新渡戸稲造の『武士道』に行き着いた。武士道の定義は明文化されていない。武士道を規定するのは一人一人の道徳観だと、私はとらえている。自己の内面を形成する道徳観に忠実に従い、自身のためよりも他者のために行動することを重視する。自らのために求めない。自らのために行動しない。大局を見失わない。本質に徹する。冷静に考え、利他の精神を指針とする。それを日々、心身の平常となすことが武士道だ。

武士道においては行動して結果を出さなければならないということも李登輝氏が力説する点だった。その言葉どおり、李登輝氏は見事な結果を出した。

蒋経国に見出された理由

氏は国民党の蒋経国総統に見出されて副総統となり、蒋経国死去によって総統に就任した。そもそもなぜ、蒋経国は外省人ではない李登輝氏を副総統に選んだのか。尋ねると、何の迷いもなく、氏は答えた。

「私が正直で真面目だからです。とても日本的だったからです。蒋経国は中国人社会で生まれて、ロシアでも長く暮らした。中国人についてもロシア人についても知り尽くしている。その彼が中国的でもロシア的でもない極めて日本的な私を選んだ」

蒋経国は李登輝氏の中に深く根づいている武士道精神の気高さを、自身が骨身にしみて知っている中国的価値観とロシア的価値観に較べたはずだ。その上で台湾の未来にとっての最善を選んだのだ。

画像3

蒋経国は父親の蒋介石が依拠した虚構、即ち中華民国の台湾が中華人民共和国全土を支配すべき立場にあり、中華民国の大戦略目標は中国全土を奪還することだという物語を放棄した。非現実的目標を見直し、外省人自身が本土化(台湾化)しなければ自らの足下さえ危ういと蒋経国は認識していた。台湾の2300万人をまとめ上げ、幸福に暮らさせる価値観はロシアでも中国でもない。日本の価値観でしかあり得ないことを識っていた。その日本的価値観を、目立たないように、しかし、陰日向なく、真面目に実践していたのが李登輝氏だった。

氏は周りをおよそ全て外省人に囲まれて12年間、国民党総統を務めた。敵陣のどまん中で総大将となったようなものだ。氏はこう語った。

「私はね、毎日、必ず蒋経国総統のお墓に参ってから、1日を始めたんだよ。毎日お参りした。私を疑惑の目で見ている国民党の皆に、李登輝は蒋経国の指針に背いたりはしないと証明するために、欠かさずお参りしたのですよ」

李登輝氏は約16年間蒋経国に仕え、至近距離で中国人の人心収攬術を学んだ。幾十幾百の決定の場面で、支配し、決定を下すことの粋、権力闘争を制する技を吸収した。敵対する口実を与えず、要求を容れ、圧力をかわし、終わってみれば、しかし、完勝していたという政治をどう実現するのか。台湾人も日本人も苦手とする懐柔、説得、欺き、買収等々を含めた畏怖すべき中国人の狡智を李登輝氏は吸収し続けた。そして成功した。

台湾を本省人の手に取り戻すには、国民党の旧勢力排除が必須だった。河崎眞澄氏の名著『李登輝秘録』(産経新聞出版)に詳しいが、李登輝氏の総統職就任当時、中国大陸時代に選出された国民党の長老たちは高額の報酬を受け取りながら終身待遇の地位にあった。彼ら数百人を引退させる鍵はカネにあった。氏は彼らの望んでいた新たな住宅や巨額の退職金を惜しみなく与えたのだ。

国民党は世界一の金持ち政党だった。国民党の資産は敗戦の結果、日本人が官民問わず台湾に残してきたものだった。本来日本国と日本人の所有であった巨額の資産を奪って蒋介石は国民党のものとした。

「それを台湾の民主化の為に使って解決しない手はなかった」と、李登輝氏は河崎氏に笑って語ったという。そのとおりである。台湾を台湾人の手に取り戻せるのであれば、カネなど安いものだ。カネは第一、使うためにある。

画像4

昭和天皇の御製を口に

ここから先は

4,172字 / 5画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください