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ポルトガルがイタリアを飛び越えて大躍進/野口悠紀雄

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※本連載は第25回です。最初から読む方はこちら。

 鎖国主義に陥った中国は、ヨーロッパ諸国によってリープフロッグされていくことになります。

 ヨーロッパの中でも、さまざまな国の間で、次々にリープフロッグが起きていくことになるのです。

◆レコンキスタと航海術の進歩


 イタリアが地中海を制覇し、地中海はヨーロッパ世界の中心の海となりました。そして交易によって沿岸の国が栄えました。

 ところが、地中海から締め出されていた国がありました。

 それは、ポルトガルです。地中海に面していないポルトガルは、地理的に不利な条件下にありました。人口も100万そこそこです。

 スペインも地中海のはずれに位置していたので、地中海貿易からそれほど大きな恩恵を受けることはありませんでした。

 ヨーロッパにおける最初のリープフロッグは、後進国であるポルトガルやスペインが、先進国イタリアを追い抜いて行くことです。

 この背景には、「レコンキスタ」と外洋航海技術の進歩があります。

 「レコンキスタ」とは、再征服の意味で、国土回復運動とも言われます。8世紀に始まるイスラム支配に対する、イベリア半島のキリスト教徒による反撃の動きです。11世紀から活発になりました。

 長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは、民族主義が勃興し、強力な権力を持つ国王を中心とした中央集権国家が、他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立されました。この動きは、15世紀末まで続きました。

 また、この頃、キャラック船やカラベル船と呼ばれる頑丈な船が建造されるようになりました。さらに羅針盤がイスラムを介して伝わり、航海技術が発展しました。こうして、ヨーロッパでも外洋航海が可能になったのです。

 ポルトガルとスペインは、競い合って海に乗り出して行ったのです。とくに、後退するイスラム勢力を追って、北アフリカ沿岸に進出しました。

◆エンリケ王子が壮大な夢を描く

 地理的なハンディキャップを抱えたポルトガルが、後に大航海時代を主導できるようになったのは、なぜでしょうか?

 成り行きでそうなったわけではありません。ポルトガルの躍進は、意図的な努力の結果なのです。

 強固な意思をもって、国の進路をある方法に向けようとした人がいたからです。

 それがエンリケ王子(1394年- 1460年)です。

 アヴィス王朝を開いたジョアン1世の子で、「航海王子」と呼ばれます。

 彼は、「ポルトガルの生きる道は大西洋に乗り出すこと。そして、そこからアジアに通じる道を見いだすことである」と考えたのです。

 彼は、インド航路(アフリカ南端を廻ってインドに至る航路)の開拓に、生涯をかけました。その目的は、イスラム商人を介せず香辛料を東洋から運ぶルートを手に入れることです。これこそが、ポルトガルの繁栄をもたらすビジネスモデルだと考えたのです。

 しかし、それは当時の人の常識に反するものでした。なぜなら、天動説を説いたプトレマイオスの地理学では、大西洋は航海不可能とされていたからです。「アフリカ海岸に沿う南回りの航路は通り抜けられない」と明言されていました。

 当時のヨーロッパ人にとって、世界の南端は、アフリカ大陸北西沖のカナリア諸島から200キロほど南にあるボハドル岬でした。これは、北回帰線の少し北です。

 その先には煮えたぎる海が広がっており、そこに乗り入れれば船板も帆もたちどころに炎上する、と信じられていました。そのため、航海しようとしても、水夫を集めることができなかったのです。

 こうした状況下で、エンリケはなぜインド航路が存在するとの信念を抱き、その発見に執念を燃やし続けたのでしょうか?  その理由は、いまとなっては、知ることは不可能です。

 彼は、さまざまな情報源から情報を得たのでしょう。サハラ砂漠のかなたに金が産出し、キャラバンが砂漠を越えて金を運んでいるとの話は、広く信じられていました。

 また、紀元前の時代に、フェニキアの船団が紅海を南下し、2年後にジブラルタルに帰還したとの伝説もありました。

 ツヴァイクは、『マゼラン』(みすず書房、1998年でつぎのように言います。

 このいわゆる不可能事を可能にし、聖書に言う如く「後なる者先にならん」(マタイ伝第19章31)がはたして真実かどうか、この試みを敢行しようというのが、ポルトガル王子の一生をかけた理想となった。

「後なる者先にならん」とは、まさに「リープフロッグ」そのものです。

◆エンリケ王子はサグレス岬で準備を始める

 ツヴァイクが言うには、エンリケが偉大だったのは、目標の大きさだけでなく、障害の大きさを正しく認識していたことです。

 地図もなく、航海上の知識もありません。そして、船は貧弱。だから、生涯のうちに目的が達せられることは不可能と悟り、「高貴な諦観」を抱いていました。そして、自分の一生を未来のために犠牲にしようと考えたのです。

 1416年、エンリケは、ポルトガル最南西端のサグレス岬の城にこもり、準備を始めました。

 ここに造船所、天文台、航海術や地図製作術を教える学校などを建設し、また学者や専門家を招聘して、造船技術、航海術、地図製作技術などを発展させました。

 エンリケが派遣した探検隊は、1420年にマディラ島、1431年にアゾレス諸島に到達しました。

 新たに開発されたカラベル船によって、探検事業は飛躍的に進展しました。 

 そして、1441年にリオ=デ=オロに達し、その地で初めてアフリカの黒人を黒人奴隷として捕らえ、本国に連れ帰りました。

 1434年にボジャドール岬を超えました。45年にアフリカ最西端のヴェルデ岬を廻り、現在のギニア地方に至り、47年には、現在のシエラレオネに達しました。48年にはアルギン湾に要塞を築きました。

 エンリケの派遣した船隊は、アフリカ西岸に関する様々な情報をもたらし、大陸の南端を回ってインドに到達できる可能性を明らかにしていったのです。

 なお、エンリケの目的は、インドへの新航路開発や香料貿易でなく、アフリカ西岸に存在すると信じられていたキリスト教君主のプレスター=ジョンを探すことにあったとの説もあります。敬虔なキリスト教徒だったエンリケがこれに心動かされたことは、十分考えられます。

 プレスター=ジョンを見いだすことは出来なかったのですが、イスラム教徒を介さずに黒人社会に接触し、奴隷を獲得する契機となりました。これは、エンリケの時代からポルトガルのアフリカ進出の主要な目的となりました。

◆エンリケは、成果を見ることができなかった


 世界史では、以上のことを「偉大な業績」と評価しています。しかし、これは、誇張もいいところです。最初の艦隊派遣から40年も経っていながら、ポルトガルの船団は、まだ赤道にも達していないのです。

 地図で確かめていただきたいのですが、ヴェルデ岬の位置は、北回帰線を南にこえてさほど遠くないところです。

 アフリカ沿岸を2400キロも踏破したといいますが、これは日本列島の長さより少し長いだけです。

 マディラ諸島やアゾレス諸島の発見も、実は再発見に過ぎませんでした。

 「アフリカ南部で大量の金を得ることができたため、ポルトガルで初の金貨が1452年に鋳造された」とする資料もあるのですが、実際には、わずかばかりの砂金が内陸部で発見されただけでした。

 では、エンリケが成し遂げたのは、些細なことだったのでしょうか?

 そんなことはありません。ツヴァイクが言うように、ポルトガルの勝利は、その到達距離にあったのではありません。それまで航海不可能と考えられていた海域が、実はそうではないと証明したことです。これこそが、最大の成果だったのです。

 ポルトガルが実際に大躍進したのは、エンリケの死後です。

 エンリケは、生きている間にその成果を見ることはできませんでした。

(連載第25回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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