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【熊本地震5年】ドキュメント熊本日日新聞編集局「あの日、何が起こったか」 輪転機停止、生き埋め女子大生の声、喜べないスクープ……

2016年4月に発生した熊本地震から今年で5年。甚大な被害を受けた熊本は、少しずつ復興という未来に歩んでいる。本稿は、『文藝春秋』2016年6月号に掲載された、地元紙・熊本日日新聞の被災直後のドキュメントである。自らも被災しながら地震報道に奮闘した記者たちの記録と記憶を未来に語り継ぐために、特別に再掲載する。

※年齢や肩書は当時のままです。

大切なものはすべて熊本にある

4月14日(木)21時26分 東京都渋谷区

熊本日日新聞社編集局長の丸野真司(59)は道玄坂上交番近くにある熊本料理店「新市街」で東京出張最終日の夜を迎えていた。同席しているのは東京支社長の荒木正博、東京編集部長の清田幸子のほか、旧知の他社の新聞記者たちである。

杯を重ね、食事も一段落つき、宴が終盤に差しかかろうとしていた時だった。丸野の携帯電話が1通のメールを受信した。共同通信のニュース速報だ。

〈熊本で震度7。震源は益城(ましき)町〉

「おい。熊本で地震だ」

丸野は携帯を持ったまま、すぐに店の外に飛び出した。そして、熊本にいる同期入社で編集総務の永森睦夫(58)に電話をかける。即座に考えたのが、永森に編集局トップの全権を委任することだった。

「家族の安全が確認でき次第、編集局全ての部に招集をかけてくれ。明日は朝刊の次に号外を出すぞ」

荒木、清田も遅れて店から出てきた。早々に会計を済ませ、3人は、熊日東京支社が入っている丸ビルへと向かうべく、タクシーに飛び乗った。清田は「気象庁の会見があるはずだから、すぐに行って」と東京支社の記者たちに指示を出している。丸野は電話で本社に指示を飛ばしながら、明日の帰熊手段を考えていた。飛行機の時刻を早め、6時25分発日本航空の始発便で帰ろう。空席があると良いが……。

仕事、家族、家。大切なものはすべて熊本にある。丸野は焦れていた。携帯を握る手に力が入った。

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熊本地震

「降版」まで時間がない

22時15分 熊本市・本社

永森は、息子が運転する車で熊本市中央区世安町にある熊日の本社に向かっていた。

「編集部門」のキャリアが20年以上の永森は、紙面の見出しやレイアウトを付ける「整理」のエキスパート。柔和な性格のため、編集局の信頼を集めている。地震発生直後に局長の丸野がまっさきに永森に電話をかけたのはその証左だ。現在は編集総務として、各局の折衝などを行う“調整役”を務めている。

地震は永森が家族とともに市内の自宅で食事をとっていたときに起こった。テーブルの下に避難したのは生まれて初めてだった。強く、経験したことのない揺れだった。いつもは自らハンドルを取って出勤するのだが、すでに晩酌を始めていたので、息子に運転を頼んだ。

本社に着くと、停電でエレベーターが停止していた。永森は編集局がある4階まで駆け上がった。編集局は見たことがない姿を晒していた。本棚は倒れ、記者たちの机の上に置かれた書類のほとんどが床にまき散らされ、スクラップ類も散らばっている。

「1面はすべて、2面、3面、1社面(第1社会面)、2社面もすべて地震ネタでいくぞ」

部屋の中央で陣頭指揮を執っているのは、15日朝刊の編集責任者である「ニュースセンター長」の花木弘(56)だ。新聞づくりは一日も欠かさず行われるため、センター長はローテーション制である。花木は運動部長も務めたスポーツマン。キビキビと指示を出している。

通常、大きな事件や事故が無い場合、朝刊の1面には3~4本のネタが入る。15日朝刊のネタは決まっていた。熊本大学発生医学研究所の研究グループが世界で初めて腎臓の元細胞を増殖することに成功したというニュースがその一つだ。

花木とタッグを組む編集一部長の末廣淳(55)は、このネタを4面に追いやり、紙面に大きな空白をたくさん作る方針を打ち出していた。

一方で「そんな分量を埋められるほどの材料が来るだろうか」という懸念も末廣は感じていた。現場に向かった記者たちから写真やデータが送られてくるのは早くても23時を回るだろう。印刷局にまわす「降版」まで1~2時間しかない。

永森は末廣のもとに歩み寄って声をかけた。

「大丈夫。埋まらないことはない。必ず来るから。県民誰も経験したことのない大きな地震だ。出来る限りの材料を紙面に盛り込もう」

しかし、編集局の一角では厳しい顔をして腕を組んでいる男がいた。社会部長の泉潤(54)だ。堂々たる体躯と立派な髭のおかげで強面に見られがちだが、情に厚く、涙もろい社会部一筋の熱血漢。

地震があるまで、泉の頭の中は5月に大々的に展開する予定の「らい予防法廃止20年」と「水俣病公式確認60年」関連記事のことでいっぱいだった。しかし、もはやそれどころではない。今回のような大規模な自然災害が発生した場合、取材の中心になるのは社会部である。

泉は困っていた。甚大な被害が出ているという震源地の益城町までは本社から約15キロの距離。すでに記者を何人か行かせているが、道路は寸断され、交通渋滞も酷いという。降版までに十分な取材をする時間を確保できるのか、心もとない。

局の入り口に社会部付の編集委員・浪床(なみとこ)敬子(45)の顔が見えた。泉は浪床にアンカーを務めてもらう予定だった。現場から上がってくる情報をまとめる役割である。

しかし、浪床は遠くから泉を確認するやいなや、「私……現場に入ります!」と大きな声を出した。見ると、浪床の目は真っ赤だった。

「待て!」と泉が声をかけた時にはすでに浪床の姿はなかった。浪床の実家は、益城町にあった。

直後、隣の政経部から「ウチに益城在住の奴がいる。町役場に入れるそうだ」という声がかかった。益城町にいるのは政経部デスクの奥村国彦(50)。かつて、泉が社会部デスクだった時代の直属の部下だ。

「奥村か。助かった! そのまま現場に入ってもらおう」

泉は叫んだ。部の垣根を超えた「オール熊日」での闘いがはじまった。

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地割れが起きた道路

23時5分 益城町役場

奥村は、妻の運転する車から益城町役場に降り立った。役場にはかなりの数の町民が避難してきていた。

奥村は益城町にある自宅で激しい揺れに襲われた。倒壊は免れたものの、室内はめちゃくちゃになった。外出していた息子を妻と迎えにいこうと家を出るとき、ラジオのニュースで益城町が震源だと知った。本社からの指示は「15日夕刊まで現地デスクを務めろ」。無事、息子と合流し、自分は役場で落としてもらい、家に帰る2人を見送った。

役場の外にある駐車場の一角が非常用ライトで煌々と照らされている。どうやらここが「災害対策本部」らしい。防災服を着た多くの人間がいる。奥村と顔見知りの町役場職員の姿も見えた。2台設置されたホワイトボードには、町内の被害家屋の住所、生き埋め者など細かな情報が書き出されていた。本社からの応援部隊はまだ現場入りできていない。奥村は1人で取材を始めた。

15日(金)2時30分 益城町・馬水(まみず)地区

崩れたブロック塀、倒れた電信柱、大きく亀裂が入った道路、押しつぶされた家屋。窓の外には、変わり果てた故郷の姿が広がっている。

浪床は、被害が大きかった馬水地区を車で回っていた。強い余震が起こるたび、ハンドルを強く握りしめる。15日朝刊の降版は1時頃に終わっていた。しかし、浪床は夕刊に向けた情報収集を続けていた。

地震発生以降、益城町にある実家の両親とは連絡が取れていない。熊本市内に住む弟に両親の安否確認を任せ、仕事に向かうしかなかった。

今回、自ら現場に向かったのは、少しでも両親の近くにいたかったからだ。浪床の父親は数年前に脳梗塞を患い、身体が不自由だ。最悪の事態が何度も脳裏をよぎった。それでも取材を続けた。救出される人、搬送される人。雑観をメモに取り、沢山の人に話を聞き、本社にデータを送り続けた。

携帯が鳴る。弟からだ。車を停めた。「2人とも無事だった!」

一気に全身の力が抜ける。今日の夕刊が降版したらすぐに会いに行こう。浪床は、車のギアを「ドライブ」に替えた。

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地震直後の益城町

「本震」で停止した輪転機

16日(土)1時25分 熊本市

自宅に戻った丸野は、微睡(まどろ)みの中で長い一日をふりかえっていた。

幸運にも朝一番の便をキャンセル待ちで確保でき、東京から本社に戻ったのが15日午前10時過ぎ。輪転機は一日中回っている状態だった。

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