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蓋棺録<他界した偉大な人々>

偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。

★内海桂子

20180607BN00039 内海桂子

漫才師の内海桂子(うつみけいこ)(本名・安藤良子)は、16歳のときに漫才の世界に入り、観客を笑いの渦に巻き込んで、八十余年にわたり現役を続けた。

1950(昭和25)年、内海桂子・好江を結成。ネタは時事から芸能まで、好江が突っ込んで桂子が呆けたところで三味線を弾き、洒落た寸評を入れて拍手喝采を浴びた。82年に漫才初の芸術選奨文部大臣賞、89(平成元)年には紫綬褒章を受けた。

22(大正11)年、両親の駆け落ち先の千葉県銚子市に生まれる。父親は籐職人だったが、蒸発してしまったので、浅草にある母親の実家で育てられた。幼いとき義祖母のイジメにあって、「死んでしまいたい」と思ったという。

9歳から蕎麦屋に奉公に出たので小学校は「中退」。その後、鼻緒屋で店番をやりながら、三味線と踊りを習った。16歳のとき漫才師の相方としてデビュー。19歳でこの漫才師との男児を出産するが、妻がいたのでコンビを解消する。戦時中は慰問団に加わり、戦後は別の相方との間に女児をもうけたものの、正式な結婚には至らなかった。

50年に相方となった好江は、知り合いの漫才師の娘で、まだ14歳だったが厳しく鍛えた。同業者から「鬼婆」と陰口を叩かれたこともある。好江の人気が高まったときには、コンビ解消の噂が流れたが、97年に好江が61歳で亡くなるまで続いた。

「好江ちゃんは私より14歳も若かったので、かえって気が抜けなかったんです」

87年頃からさかんに手紙を送ってくる人物がいた。日本航空の関連会社で働く男性で、アメリカで仕事をしているという。「ご拝顔の機会を」というので一度食事をすると、その後はもっと頻繁に手紙を書いてくるようになり、ついにラブレターとなった。

成田常也というこの男は芸能にも詳しいのだが、歳が24歳も若く娘と同年代だった。最初は本気にしなかったが、あきらめずに会いにやってくる。ついにほだされて一緒に暮らすようになり、77歳のとき正式に入籍した。ふたりとも初婚だった。

その後、成田はマネージャーを務めるだけでなく、身の回りの世話もしてくれた。夫婦げんかもよくした。お陰で活動範囲が広がり、87歳のときツイッターを発信するようになり、50万人近いフォロワーがつき話題となる。

90歳を過ぎても活動を続け、新しい試みに挑戦した。繰り返し唸った都々逸が「年寄を いたわるばかりが 政治じゃない 生かして使えよ 老いの知恵」だった。(8月22日没、多臓器不全、97歳)

★西川善文

20111013BN00026 西川善文

元日本郵政社長の西川善文(にしかわよしふみ)は、激しい経済変動を銀行家として生き抜き、「ラストバンカー」と呼ばれた。

2009(平成21)年、日本郵政社長の辞任を発表する席で、西川は苛立っていた。ストロボが一斉に焚かれると「カメラは出ていけ」と怒鳴り、「もう会見やめようか」と口走って、最後の記者会見は惨憺たるものとなった。

1938(昭和13)年、奈良県の畝傍町(現・橿原市)に生まれる。父親は生命保険代理店を経営。地元中学をへて畝傍高校に入学する。テニスが上手く、1年生なのに県大会で優勝するほどだったが、進学もあり2年生でやめた。

大阪大学法学部に進んでからは、新聞記者に憧れる。ところが、友人に誘われて住友銀行を訪問すると、人事部長に会わせてくれた。迫力ある人物で磯田一郎といった。「君、住友銀行にきたまえ」。この一言で人生が決まった。

最初は支店に配属されたが、本店の調査部に引き上げられる。徹底的に融資先の評価法を先輩に教え込まれ、そして後輩に教え込んだ。「当時は徒弟制でした」。いつの間にか30代ながら飛びぬけた審査力で高い評価を得ていた。

75年、大きな融資先のひとつ安宅産業が、オイルショックの煽りを受けて破綻。このとき西川は融資部次長だったが、安宅を伊藤忠商事に吸収合併させるのに中心的な役割を果たす。このときから、「不良債権処理は西川」というのが行内の定評となる。

80年代、会長の磯田が断行した平和相互銀行の吸収合併のため、抱え込んだ不良債権の処理も西川により遂行された。しかし、さらなる磯田の暴走に、90年、部長会を招集して磯田の退任を求める要望書をまとめる。「恩人に引導を渡した」といわれた。

この年、バブルが崩壊して、それまで磯田が入れ込んでいたイトマンが最終的に破綻したときも、その処理を西川がまとめた。新聞に「不良債権と寝た男」と書かれる。

97年、頭取になるように言われて、正直戸惑ったという。「銀行家として経歴がいびつで、副頭取で終わりだと思っていた」。しかし市場における西川の評価は高く、住銀の株価が東京三菱銀を抜き「西川プレミアム」と称される。

2001年、さくら銀行との合併に漕ぎつけ、同年には三井住友銀行の初代頭取に就任。このときさすがに、バンカーとしての人生も終わりが近いと思われた。

ところが、2005年、同行頭取退任の直後、竹中平蔵総務相より日本郵政社長に就任するよう要請がきて驚く。妻は「政治音痴には無理」と反対した。それでも翌年就任したのは、三井住友の増資で金融相時代の竹中に「借り」があったからといわれた。

まったく異質の事業体に身を投じ難題と格闘したが、思うに任せなかった。民主党政権が生まれ、辞任を促されたのは3年後のことだった。(9月11日没、不明、82歳)

★守屋浩

元歌手の守屋浩(もりやひろし)(本名・邦彦)は何曲もヒットを飛ばしたあと、芸能プロダクションのスカウトとして活躍した。

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