西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#29
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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#29

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最終章
See You Again
1999年・夏 - 2001年・冬

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※本連載は第29回です。最初から読む方はこちら

(29)若さのパーセンテージ

 1999年11月。ジャニーズ事務所から新しく登場した5人組「嵐」のデビュー曲〈A・RA・SHI〉を聴いた僕は度重なるテンポチェンジ、ラップやバラード部まで織り交ぜたミュージカルのハイライト部分を凝縮したような摩訶不思議な構成に衝撃を受ける。あまりの感動に文化放送で毎週火曜日深夜にパーソナリティを任されていた『LIPS PARTY 21.jp』でも何度もオンエア。「プリンスの〈バットダンス〉に匹敵するほどアヴァンギャルドなシングル曲であり、これまでのジャニーズ、いやすべてのアイドルの歴史で、デビュー曲でここまで攻めた楽曲はない!」などと周囲に熱弁した。

 自分自身の音楽活動が軌道に乗り、年齢を重ねるほど純粋なリスナーとしての心の余裕は失われてゆく。むしろこの時期になると海外のヒットチャートよりも日本人ミュージシャンやアイドルから次々と繰り出される個性的な作品に刺激を受けることが増えた。思い通りにいかないキャリア。挫折を味わいつつも、チャンスはまだあり切磋琢磨出来る悦び。当然と言えば当然だが、音楽の捉え方は、立ち位置が変わると同時に良くも悪くも変わる。26歳になろうとする僕は若くも有望でもない。なんと言っても1969年1月に撮影されたビートルズのドキュメンタリー映画『LET IT BE』に登場するジョージ・ハリスン、彼は解散間際のあの貫禄でまだ25歳なのだから。

 この年の3月15日、デビュー前後に大きな影響を受けたフィッシュマンズのフロントマン、佐藤伸治さんが33歳で亡くなっている。葬儀に参列した際、先輩メンバー達がバンドとして音を奏でていた姿が忘れられない。深夜の天気予報番組で初めて〈ナイトクルージング〉のミュージック・ビデオを見て《空中キャンプ》を買ったのは、ちょうど自分のバンドに対する希望が満ちてきた時期のこと。フィッシュマンズのように自分たちのスタジオを持ち、レコーディングに邁進するスタイルが理想で強く憧れていた。我々に声をかけてくれたディレクターの渡辺忠孝さんは、少し前までポリドールに在籍されていてフィッシュマンズとも関わりがある。渡辺さんに紹介してもらってから彼らの東京でのライヴはほぼすべて現場で体感することが出来た。

 年末に赤坂BLITZで行われたベーシスト柏原譲さんの脱退が宣言された『男達の別れ』ツアーファイナルも目撃したばかり。二日間あるうちの初日だったこともあり、1階のフロアには余裕がまだあった。少し驚いた僕と小松は途中で用意されていた2階席最前列からフロアに降り重低音に身を預けている。ステージの景色やビターなグルーヴの余韻がまだ残っているタイミングで伝えられた佐藤さんの訃報……。ただ当時の自分にとって彼ら「30代のミュージシャン」は想像を絶するほどの成熟した「大人」であり大先輩。彼らに満ちる「若さのパーセンテージ」を正確には想像出来ていなかった。

 僕らが契約したワーナーミュージック・ジャパンはスタッフも20代後半が中心でどことなくサークル的な一体感があった。1999年、ワーナーからシングル〈はなれ ばなれ〉でデビューしたスリーピース・バンド「クラムボン」とは宣伝チームが同じだったこともあり、社内での取材やキャンペーンなどでよく一緒になった。ヴォーカルの原田郁子ちゃんとは、SUPER BUTTER DOG やフィッシュマンズのライヴ会場でも何度も顔を合わせる間柄。良い意味で浮世離れした、純粋にただただ響くその歌声が好きだった。大学時代から同じドラマー小林克己君を通して縁のあった堀込泰行君が、兄の高樹さんと共に結成したキリンジもほぼ同じ時期にワーナーでの活動を始めている。キリンジは当初からライバルと呼ぶにはおこがましい存在。まさに「ミュージシャンズ・ミュージシャン」という表現がぴったり。スタッフもライターも、僕もメンバーも皆、キリンジの生み出す名曲の数々に夢中になった。

 世紀末の狂騒の中、次々とデビューする同世代の魅力的なバンド達。中でもメンバーそれぞれのとんでもない演奏力の高さとオリジナルな楽曲濃度に度肝を抜かれたのが TRICERATOPS だ。天真爛漫な笑い声とチャーミングなルックス、骨太かつポップなサウンドと「シニヨン」「マスカラ」「ピンヒール」などリアリティに満ちた言葉選びで女子達の嬌声を集めるギター、ヴォーカルの和田唱君は熱狂的なマイケル・ジャクソン・フリーク。1999年5月に発売され、その夏、ポカリスエットのタイアップ・ソングとして大量オンエアされた8枚目のシングル〈GOING TO THE MOON〉で同世代バンドのフロントラインに躍り出た彼らの勢いはとどまることはない。多忙な中、東京育ちの都会的なムードに満ち溢れ、全身にスターのオーラをキラキラと纏う彼と話す時間が本当に楽しい。

「ゴータくん知ってる?」

「何?」

「あのさ、あのさ、〈ガール・イズ・マイン〉のレコード・ジャケットで、マイケルが着ているブルーのスタジアム・ジャンパーあるじゃない?」

「あれ、めちゃくちゃ可愛いよなー」

「あれさ、ポールが逮捕されて中止になった1980年1月のツアーグッズなのよ。俺、ネットで背中ごしに振り向いた写真見たんだけど」

「え? そんなんあるん?」

「日本地図と McCARTNEY JAPANESE TOUR 1980 ってデザインされてるんだよ、見てみてこれこれ」

 インターネットが一般的に急速に普及した時期。マニアが自主的に作るホームページがこれまで知らなかった写真や証言をまとめて発表したことで新発見も多くなる。お互い自分の持つ情報を嬉々として分かち合うのが最高の酒のツマミ。僕にとって自分よりもマイケルに関して詳しく、興味を持っているミュージシャン仲間がいるというはじめての状況は、キャッチボールで例えるなら限界まで全力で相手の胸元に投げ込んだボールが、ピシーッ! と快音を上げながらグローブに吸い込まれてゆく快感に満ちていた。疲れ果てた後にグラウンドに寝転んで「おまえは凄い、それにしても楽しいなぁー」と言えるような仲間が人生ではじめて登場したのだ。こうした出会いこそがプロになった醍醐味かもしれない。

 久しぶりにカズロウと会ったのは、彼がついに両親の元から独立し新たにはじめる店「今陣」で売り出す「ブルーベリー団子」を是非試食してほしいと携帯にメールがあったからだ。僕は2年以上使ったジョグダイヤル付きの携帯電話 SONY SO201 から、富士通製の F501i に初めての機種変更をしたばかり。カズロウが教えてくれたiモードのメールアドレスが「blueberry_dango」的なニュアンスでその気合いにちょっと笑ってしまった。それにしても数年前、あてもなく人を待ち結局会えなかったり、お互いの留守番電話に公衆電話からメッセージを残すなど四苦八苦していたことが嘘のようだ。

 カズロウとマイカの間には長男の哲朗君が1997年1月に生まれていた。しかし、カズロウの浮気が原因で2人はこの時すでに離婚している。その後、ひとりきりでトライ&エラーを繰り返した「ブルーベリー団子」でカズロウは大きな成功を収めてゆくのだが、マイカも離婚後、英語教師になるというもう一つの夢を子育てしながら大学に復学して叶えた。2人の結婚はお互い20代に突入したばかり。本人達の言葉を借りれば、まだ彼らは「若すぎた」。しかし、その若さゆえに再スタートするチャンスにも恵まれていた。同世代の仲間の中で最も若くしての出産と子育ての結果、息子の哲朗が高校生になりギタリストを目指した2010年代半ばになってもまだマイカとカズロウは30代。この頃になると、マイカは随分と自由になり、思いがけずドラマーに復帰、哲朗と母子でバンド活動をしていたこともある。マイカは若くして亡くなったバンドマンの兄・哲平からの徹底的な指導で中高生の頃にドラマーとしての腕を磨いていたが、彼の死をきっかけにスティックを握るのをやめ音楽から完全に距離を置いていた。しかし、サッカー選手を目指した息子・哲朗がその夢を諦めた後、同級生で親友のベーシストに感化され音楽の道に情熱をシフトさせた頃から、マイカの中に長らく眠っていたドラマー魂に火がつく。

 哲朗の盟友であるベーシスト丸谷憲太郎、ニックネーム「まるけん」はエネルギッシュな男で、ストーン・ローゼズの大ファン。彼はレコード会社が主催しデビューを競う高校生バンドのオーディションにオーバーエイジ枠があると知るとマイカを含めたメンバーでエントリーしたいと説得していたが、現役高校教師であるマイカが本格的にバンド活動をするのは憚られると固辞したことで、その話は一旦無くなってしまう。彼女から「馬鹿じゃないの。まるけんはしつこいんだけど、親子で参加だなんて哲朗も嫌がるでしょう」と相談を受けた僕は「日高さんのビークル(BEAT CRUSADERS)みたいに、マイカもお面をつけて氏素性を隠せばいいのに」などとテキトーにアドバイスをしてみたのだが、「何言ってるのよ、バレたら仕事だって辞めなきゃなんないかもしれないし……」と一笑に付された。その話には実は続きがあるのだがいずれまた。

 下北沢のライヴハウスに夜な夜な通い詰めていた約5年前。カズロウが家業を継ぐことを決心する直前のこと。名門美容室「SHIMA」で描いていた未来との間で思い悩む彼に酔っ払った僕は「ブルーベリーとかマンゴー包んだ饅頭はどう?」と言った。突拍子もない新しいことにチャレンジすると決めれば、自分らしいやり甲斐が生まれるかもしれないと思ったのがその理由だが彼はそれから長い月日をかけて「ブルーベリー団子」を実際に完成させたのだ。試食場所に指定されたのは下北沢駅前、ライヴハウスで呑んだくれていた時代によく通っていたケースケさんのバー「敦煌」。ケースケさんも僕らの久々の来訪を喜んでくれている。店のスピーカーは新調され心地の良い重低音再生環境を試すようにフィッシュマンズの〈MAGIC LOVE〉が流されていた。

「俺はこの前、食べさせてもらったのよ。超いい感じですごいよ」

 ケースケさんがグラスを丁寧にキャビネットに並べながら微笑んだ。カウンターで団子を頬張る僕をカズロウが心配そうに凝視している。

「めちゃくちゃ、美味しいわ……。俺、グルメでもなんでもないけど、ホントに美味しい……。俺みたいにスイーツとか興味なくてもこれは大好き、あーー、美味しい」

「ありがとう。良かった……」

 カズロウは目に涙を溜めている。数年後、マイカはこの頃のことを思い出して僕にこう言った。

「私はね、ブルーベリー団子……、正直反対だった。お母さん達が長年作ってきたみたらし団子とおはぎ、それを継承することの何が悪いのって喧嘩もしたしね。私だけじゃなかったんだよ。『無理だ』って言ってたのは……。彼の夢や考えてることをなんでもう少し信じてあげられなかったなって今はちょっと思ってる。でも、あの時色々あったからこその『今』でもあるからね」

第30回へ続く

★今回の動画――映画:フィッシュマンズ 予告第一弾



■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
 1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
 日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
 現在 Amazon Music Podcast「西寺郷太の最高!ファンクラブ」でホストを務める。

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