観月_修正

小説 「観月 KANGETSU」#6 麻生幾

第6話
塩屋の坂(1)

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※本連載は第6話です。最初から読む方はこちら。

「商人の町」と呼ばれる、杵築の市街地のメイン通り。そのほぼ中央にある「綾部味噌店」の前で七海を降ろした涼は、笑顔で手を振ったものの、すぐに真剣な表情となって車を発進させた。

 涼の車を見送った七海が、武家屋敷風に白と黒の木造建築で統一された商店街へと、ふと目をやった時だった。

七海は思わず大きく息を吸い込んだ。

 ひっそりとした佇まいの家屋を、いつになく赤色に近い夕焼けが染めている。

 軒を並べる店の前に立てかけられている、「観月祭」の開催を知らせる幟(のぼり)にしても、強い風で大きくなびいていた。

そして、杵築観光のイチオシである、安い料金での着物のレンタルと着付けをしてもらった観光客の女性たちが、ちらほら見えたが、人通りは普段の土曜日よりずっと少なかった──。

 いつもとは違うそれらの光景から、七海は、なぜか得体の知れない不気味な感覚に襲われた。

 そして、七海の脳裡に浮かんだのは、涼のあの言葉だった。

〈パン屋のオヤジん、熊坂さん、その奥さんの遺体が──〉

──なぜ彼女は殺されなければならなかったの……。

 七海の頭は混乱したままだった。

 親しくしていた人が、殺される、なんて、七海にとっては到底、現実として受け止められることではなかった。

 殺されたのは、熊坂パン店のご主人、熊坂洋平さんの妻、良子さんである。

ご主人が忙しい時には、軽自動車を駆ってパンを持って来てくれた良子さん。

 いつも私たちに笑顔をみせてくれて、「どうど召し上がっちくりい」と優しい口調で語りかけてくれた良子さん。

だが、その一方で、彼女のその顔に、どことなく、寂しいものを七海はいつも感じていた。

 いつか七海がふと想像したことは、彼女のその悲しげな笑顔の奥には、これまでの人生の中で何か重い物を背負ってきた、もしくは未だに引き摺っている──そんな風なことだった。

 だが、もちろんお二人にそんなことを聞いたこともないし、あちらから話されたこともない……。

 ハッとしてそのことを思い出した七海は、「商人の町」の通りを横断し、「北台(きただい)武家屋敷」と呼ばれる区域に繋がる、「塩屋(しおや)の坂」の名がついた目の前の石畳を急ぎ足で登った。

──母に良子さんのことを早く知らせないと!

 石畳は相当な急坂だが、もちろん足がもつれることはなかった。

何しろ、この階段は、小学校の頃からの通学路である。

ランドセルを背負ってこの「塩屋の坂」を下り、ちょうど反対側にある、「酢屋(すや)の坂」との名が付いた、同じく急な石畳を駆け上がった七海。

その先にある「南台(みなみだい)武家屋敷」と名付けられた、歴史的な街並みのエリアの、さらにその向こう側にある小学校まで駆け足で通ったものだ。

 この二つの石畳を、元気だった頃の父と母と一緒に上り下りしたことを頭に蘇らせた七海は、思わず胸が締め付けられた。

向かい合った二つの石畳は、今から十日ほど経った、その夜、観月祭が催されて幻想的な光の世界に包まれる。

 漆黒の闇に被われた街のあちこちで輝く灯籠の中を、まだ8歳だった七海が、亡き父と母と手を繋いで歩いたあの頃。その時の記憶に、この歳になった今でも心を乱されるのだ。

 だが、七海は、早く母に知らせないと、という思いとなって階段を急いで登りきった。

石畳を上りきった七海は、「寺町(てらまち)」と書かれた表示を横に見ながら、古い街並みの中にある自宅を目指した。

 玄関の前に立った七海は、母親の貴子が扉を開けてくれるのを待つのももどかしくインターフォンを何度か鳴らした。

「そげえ鳴らさんでんわかっちょんよ。どげえしたん?」

 怪訝な口調でそう言いながら扉を開いた貴子が言った。

「あんた、親戚からは、七海ちゃん、ちいと大人し過ぎるわね、っち言わるるけんど、本当はこげな落ち着きがねえし──」

 だが七海はそれには応えず、貴子の手をいきなり掴んで、奥の居間まで強引に連れていった。

「お母さん、聞いた?」

コートを脱ぐよりも先に、七海は急いで言った。

「なんの話か」

 貴子が眉を寄せて訊いた。

「熊坂パンの奥さん、良子さん、殺されたん!」

 七海は、殺された、という言葉が平気で口から出たことに自分でも驚いた。

(続く)
★第7話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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