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保阪正康 良心とマキャベリズムのアメリカ キリスト教精神とは裏腹の外交的老獪さ――二面性を見抜けなかった日本の悲劇 日本の地下水脈24

文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

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保阪氏

日米関係の近代史を振り返る

沖縄は本土復帰50年を迎えた。復帰当時は「核抜き、本土並み」と喧伝されたが、在日米軍基地の返還は進まず、今も全国の7割の米軍専用施設が、国土全体の面積の約0.6%でしかない沖縄に集中し、「本土並み」は実現していない。そして、基地が集中しているがゆえの苦悩を、沖縄は背負わされている。

1995年、米兵3人が小学生の女児に性的暴行をするという凶悪事件が発生した。だが日本の捜査当局は容疑者を起訴前に拘束することはできなかった。2004年、米軍普天間飛行場に隣接する沖縄国際大学に米軍の大型ヘリが墜落した。このときも米軍はキャンパスに規制線を張り、日本の捜査当局はおろか地元消防本部や大学教職員も立ち入りを禁止された。立ち入りを許されたのは米兵の注文を受けたピザの配達員だけだった。

こうした在日米軍の事実上の「治外法権」を可能にしているのは、昭和35(1960)年、岸信介内閣の日米安全保障条約改定と一緒に結ばれた日米地位協定である。米軍は基地の施設管理権を握り、重大な問題が起きても日本側は容易に立ち入れない。さらに、米軍機には日本の航空法適用が除外されており、異常な低空飛行や騒音被害などで住民は苦しんでいる。それでも地位協定は締結以来一度も改定されておらず、日本政府は「運用を改善している」とするだけで、協定そのものの見直しをしようとは決してしない。

沖縄に限らず、「日本は本当の独立国なのか」という疑問は、戦後、事あるごとに浮上してきた。だが、日米関係を問い直すには、戦後だけでなく、もっと長い時間軸で見る必要がある。

日本の近代は幕末の安政元(1854)年、アメリカによる開国から始まった。以来約170年、日米関係は時に友好であり、時に激しく対立したが、アメリカは文化や思想面において日本人に大きな影響を与え続けてきた。今日の日米関係の奥底には、日本に流入したアメリカの思想と日本の攘夷の地下水脈との相互作用が存在するのである。今回と次回の2回にわたり、日米関係の近代史を振り返ってみたい。

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ペリー提督

攘夷と表裏一体の日米外交史

日本とアメリカの接触は、19世紀半ばに始まっている。すでにアメリカは西太平洋に進出しており、清との貿易船や捕鯨船の補給港として、日本の開国を望んでいた。天保8(1837)年にはアメリカの商船モリソン号が日本人漂流民7人の送還と貿易開始を求めて来航した。だが浦賀沖で砲撃を受け、続いて向かった鹿児島沖でも薩摩藩の砲撃を受け、結局は日本から退避した。その後、弘化3(1846)年にも米東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビッドルが浦賀に来港して通商を求めたが、これも幕府は拒絶した。

ところが嘉永6(1853)年、同艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる艦隊四隻が浦賀に来航し、事態は一変する。ペリーはフィルモア大統領の国書を携え、武力を背景に開国を強硬に求めたのだ。幕府は渋々国書を受け取り、翌年回答すると約束し、いったん日本から退去させた。だが、ペリーは7カ月後に7隻の軍艦を率いて再来航した。

幕府はペリーの圧力に屈し、日米和親条約を結んだ。その後、幕府は他の列強諸国(イギリス、フランス、オランダ、ロシア)とも同様の条約を結んだ。いずれも関税自主権がなく、治外法権を許すなどの不平等条約だった。近代日本はこの条約を改正するために、多大なエネルギーを費やすことになる。

アメリカの砲艦外交によって日本の近代は始まったが、それは同時に「攘夷」という思想の勃興につながった。薩摩藩は文久2(1862)年、武蔵国生麦村(現横浜市鶴見区生麦)でイギリス人4人を殺傷する事件を起こした(生麦事件)。長州藩は翌文久3年、下関海峡を航行する米船などを砲撃した。

ただ、薩長は攘夷の代償を払うことになる。薩摩藩は錦江湾に進撃してきた英国軍艦と交戦し、城下を焼かれた。長州は米英仏蘭の4カ国連合艦隊の砲撃を受け、下関の砲台が一時占領される屈辱を味わった。

攘夷が不可能であることを悟った薩長は、一転して西欧文明の吸収に励み、明治維新後の国家運営の基盤を作り上げた。一方、攘夷の思想は地下水脈となり、その後も日本社会に流れ続けることになる。そして日米外交の節目節目で、攘夷の地下水脈は勢いよく噴出するのである。

新興国同士の奇妙な連帯感

武力を背景に開国させられ、不平等条約を結ばされたにもかかわらず、維新政府の指導者たちはアメリカに親近感を持っていた。明治4年から6年まで2年間欧米諸国を視察した岩倉使節団が最初に向かったのは、アメリカであった。

この不思議な親近感の背景には、日本と同じくアメリカも「若い国家」であったからではないかと推測される。南北戦争が終わりアメリカ合衆国が統一されたのは1865年。日本の明治維新とほぼ同時期である。同時期に出発した国家同士という連帯感が、維新政府にはあっただろう。加えて、南北戦争は奴隷解放を掲げた北軍が勝利したが、人種差別を解消しようとする理念も、日本人の共感を呼んだと考えられる。

アメリカが日本に対し、他の列強がアジア諸国で繰り広げていたような露骨な帝国主義的ふるまいをしなかったことも大きい。ペリー艦隊は武力で威圧こそしたものの、大統領の国書を携え、儀礼的手続きを踏んで日本に接した。イギリスのように中国にアヘンを売りつけて戦争を誘発したり、ロシアのように領土拡張の野望をむき出しにはしなかった。

そればかりか、当時の日本がアメリカ型の国家を目指す可能性もあったのである。本連載で繰り返し言及してきたが、明治維新後、日本が取りえた国家像は5つの選択肢があった。(1)欧米列強に倣う帝国主義国家、(2)欧米とは異なる道義的帝国主義国家、(3)自由民権を軸にした民権国家、(4)アメリカに倣う連邦制国家、(5)攘夷を貫く小日本国家、である。

当時の日本の状況を考えると、(4)のアメリカに倣う連邦制国家も、実現の可能性があった。江戸時代、各藩はそれぞれ独自の法令と秩序を持ち、いわば連邦国家を形成していたからである。藩を温存しながら連邦制の近代国家に移行するという選択肢もあった。

だが、岩倉使節団は実際にアメリカを見学し、民族の多様性や国土の広さなど、日本との違いがあまりにも多いことに気づいた。短期間で日本が列強に追いつくには、強力な中央集権体制を整える必要があった。そのためアメリカ型の連邦制ではなく、プロシア型の立憲君主制を選択することになった。

それでも明治の指導者たちがアメリカに親近感を持ち続けていたことは確かだ。その片鱗は、明治初期の学校教科書に見ることができる。明治12(1879)年に教育令が公布され、明治19年から正式に尋常小学校教育が制度化したが、その教科書にはアメリカの偉人が多く取り上げられていた。アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリン、初代大統領のジョージ・ワシントン、奴隷解放を実現した大統領のエイブラハム・リンカーンなどが紹介されていた。また、アメリカの科学技術や文化の発展についても詳しく紹介されている。

キリスト教的良心の影響

アメリカは日本に多大な文化的影響をもたらしたが、その根底にはキリスト教が存在した。キリスト教の寛容の精神は、アメリカン・デモクラシーにおける基本的人権、個人の自由と独立の尊重、民主主義の精神と通底する。維新後に流入したアメリカ文化を通じて、日本人は必然的にキリスト教的な思想的影響を受けるようになったのである。

キリスト教は江戸時代に200年以上も禁教とされ、いわゆる「隠れキリシタン」などの間で密かに信仰が守られてきたにすぎなかった。それが明治6年に禁教令が解かれると、キリスト教の精神は、真綿が水を吸い込むように日本人の間に伝播していった。

キリスト教の影響を受けた代表的な日本人に、のちに同志社を設立する新島襄がいる。

新島は天保14(1843)年、上野国安中藩の江戸詰め下級武士の長男として生まれた。少年期に漢訳の聖書に触れた彼は、キリスト教の精神に感化され、海外渡航を決意。元治元(1864)年、21歳の新島は函館から国禁を犯して出国し、単独でアメリカに渡った。

マサチューセッツ州の私学フィリップス・アカデミー在学中に洗礼を受けた新島は、アマースト大学で自然科学を専攻した。この頃、のちに札幌農学校に赴任するウィリアム・クラークと出会っている。新島は、欧米文明を支えているのはキリスト教の精神であることを深く理解し、アンドーヴァー神学校にも学んだ。

新島が神学校に在学中、岩倉使節団がアメリカにやってきた。彼の英語力は使節団の目に留まり、団員として1年あまりアメリカや欧州の教育事情の視察に加わった。

明治7年に宣教師として帰国後、新島はキリスト教の精神に基づく人材育成を目指し、翌明治8年、あえて京都に同志社英学校を設立した。

当時の日本人のキリスト教観を象徴するエピソードがある。新島は帰国前、アメリカの教会で「日本にキリスト教主義の学校を作りたい」と訴えた。すると続々と寄付者が現れ、総額5000ドルもの資金が集まった。新島の講演を聞きに来たある農夫は「これは帰りの汽車賃だけど、自分は歩いて帰る。日本で立派な学校を作ってほしい」と、2ドルを寄付して帰ったという。この農夫の寄付が最も感動的であったと、新島は後年回想している。

もっとも、これが事実であったかどうかは確かめようがない。だが、当時の日本人はこうした逸話に「アメリカの良心」を見たのである。

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新島襄

「大志を抱け」

新島に呼応するように、日本各地でキリスト教に影響を受けた動きが活発化してゆく。

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