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なぜ池袋は鉄道の影が薄いのか 門井慶喜「この東京のかたち」#23

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※本連載は第23回です。最初から読む方はこちら。

 池袋の街は昭和29年(1954)1月20日に誕生した。もちろんそれ以前にも池袋村などという名前で存在はしていたが、ほぼ純然たる農村だったので、こんにち見るような都会ではなかったのである。

 この日はじつは、営団地下鉄(現・東京メトロ)丸ノ内線の開業日だった。池袋ー御茶ノ水間。ということは、この時点では、丸ノ内線なのにまだ丸の内に達していなかったことになるが(のち延伸)、それでも東京では銀座線につづく2番目の地下鉄だったし、さらに言うなら、山手線の内側への侵入を果たしたという点でも銀座線につづく存在だった。

 これ以降、池袋は人口が急増した。私は前稿において、新宿、渋谷、池袋を「にしっこ三兄弟」と名づけ、この山手線の西側もしくは江戸城(皇居)の西側における三大都会を理解するための緒(いとぐち)としたが、こうしてみると、この長男、次男、三男は、誕生の時期はちがうけれども、その誕生のしかたはいっしょだった。

 つまり人口増のパターンは同一だった。すなわち、

1 円周上
2 円外
3 円内

 の3つの条件をみたしたときに、彼らは都会になったのである。具体的には、

1 山手線の駅が設けられる。
2 その駅が、山手線外への起点となる。
3 線内への起点にもなる。

 わかってみれば、何ということはない。ごく当たり前のことだった。なぜなら都会が成り立つというのは遊水池が成立するようなもので、広い土地と、そこへ人間をながしこむ大河の水源がいるのだから。

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JR池袋駅ホーム

 その広い土地は2によって、大河の引きこみは3によって、それぞれ実現するのである。この場合、その水源にあたるのが浅草、上野、神田といったような城東の伝統的人口密集地であることは、いまさら言うまでもないだろう。近代東京の人口は、大きく言えば、東から西へ滔々とながれた。

 ところで2の、山手線外への「起点」づくりは、この三兄弟の場合にはもっぱら民営鉄道が担当した。新宿ならば小田急と京王(それに民営ではないが現在のJR中央本線も入れていい)、渋谷ならば東急。

 東急については前述した。実質的な創業者・五島慶太が渋谷をターミナルと決め、そのまわりに関連会社や商業施設を配置して東急王国としたわけだが、池袋の場合、それにあたるのは西武鉄道といえるだろう。

 実質的な創業者は、堤康次郎。

 五島慶太は生前「強盗慶太」などと世間から陰口をたたかれたけれど、こっちは、

 ――ピストル堤。

 と呼ばれた。あだ名の由来はわからないが、まあ、どっちにしても温厚篤実な人柄でなかったことは確実だ。そのピストルは明治22年(1889)、滋賀県愛知(えち)郡八木荘村の農家に生まれた。

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堤康次郎氏

 五島慶太の7つ年下ということになる。田舎うまれの点でも共通しているし、両親が信心ぶかいという点もおなじである。いや、康次郎のほうは、5歳のとき父が病死して祖父母に育てられたから、祖父母が信心ぶかかったと言いなおすべきだろう。

 康次郎は、小学校の成績がとてもよかった。地元の名門である彦根中学への無試験入学をゆるされるほどで、入学手続きまでしたけれども、祖父が、

「彦根のような繁華なところで暮らしたりして、悪い人間になったらたいへんだ」

 と心配したので入学をやめ、百姓になり、農業に関する本を読みに読んだ。その結果、

 ――リン酸肥料というのが、いいらしい。

 という知識を得て、矢も楯もたまらず大阪へ出かけた。

 大阪では内国勧業博覧会という、政府主催の、殖産興業を目的とした展示会がおこなわれていたのである。時期からして明治36年(1903)開催の第5回だろう。康次郎はそこで展示を見て、大阪硫曹という会社の社長をつかまえて、

「滋賀県では、リン酸肥料というのは誰も知りません。私に一手販売をやらせてください」

 15の小僧の直談判である。社長はもちろん話に乗らなかったが、馬車に2台ぶん売ってくれた。康次郎はこれを持ち帰り、ずうずうしくも家に、

 硫曹肥料一手販売
 堤清左衛門

 の看板をかかげた。

 清左衛門というのは祖父の名である。すなわち堤康次郎の最初の経済活動にほかならないが、

 ――開店当日に、売り切れる。

 という本人の予想は大はずれ。誰ひとり来ないまま看板はひっそり下ろされた。まあ当然の結果だった。

 その後は粛々と百姓をつづけたけれど、やはり心に期するものがあったのだろう。祖母が死に、祖父が死ぬと田んぼを担保にして5000円の金を得て、東京に出て、早稲田大学に入学した。やはり頭がよかったのだ。

 大学へ行くときは、人力車を使ったという。こんにちで言うなら毎日タクシーで通うようなもので、当時でもそうとうな贅沢だったけれども、これには理由がある。康次郎は入学後、会社を経営するようになったのだ。

 原資はたぶん、田んぼの5000円だろう。これでさる毛織物会社の株を買ったところ大もうけになった。「半年たたないうちに6万いくらになってしまった」とは本人の回想である。その大金もすかさず投資へまわして、日本橋の郵便局長の権利を買ったり、渋谷に鉄工所を所有したりしたのである。くりかえすが早稲田の学生がである。

 もっとも鉄工所のほうは、卒業後つぶれてしまった。あとはお決まりの転落人生である。長野の山に石炭が出ると聞いては掘りに行って大損をし、雑誌を出しては廃刊になり、真珠の養殖をやっては失敗し……これでまあよくも身代を棒にふらなかったものだと逆に賛美したくなるけれども、想像するに、康次郎はこの傷を、株で癒やしたのではないか。

 推察するに、インサイダー取引によって。何しろ彼は、早稲田では政治学科に所属していたし、サークルは弁論部に所属していた。ことに後者は重要である。この組織は康次郎の当時も、こんにちも、国会議員や大臣をたくさん輩出していることで知られ(こんにちの名称は雄弁会)、特に当時の学生は、私たちが想像するよりもはるかに現役政治家との接触が多かったものらしい。

 康次郎自身、晩年の大隈重信とじかに話したという。大隈はいうまでもなく早稲田の創設者であり、雄弁会の初代総裁であり、かつ二度にわたり内閣を組織した総理大臣経験者である。こういう特殊な人脈を通じて康次郎はおそらく公共事業や企業活動に関する情報をいちはやく手に入れ、それを利用して、株の売り買いに励んだのかもしれない。

 なおインサイダー取引は、当時は一般に「内部取引」と呼ばれ、それ自体は違法ではなかった。私の目には、堤康次郎という人は、金もうけの才があるというよりは、むしろ意欲だけが化けもののように発達した人のように見える。才ある人はもっと様子がスマートなのではないか。

 とにかく康次郎は、こんなやみくもな失敗ののちに軽井沢と出会ったのである。

 彼は広大な土地を買い入れた。軽井沢はもともと西洋人の避暑地だったから地名に華やかさがあったところへ、第一次大戦後の好景気により、日本人の金持ちにも手がとどく場所になりかけていた。そこへ康次郎があらわれて、人が住める環境をととのえた上で、建売り別荘の分譲を開始したのである。

 軽井沢という土地は、この瞬間、大衆化がはじまったといえる。康次郎もこれ以降は安定した。あいかわらず株の取引をつづけながら、軽井沢と同様の大網(おおあみ)打ちのやりかたで箱根を手がけ、国立(くにたち)を手がけ、東京近郊の各地を手がけた。そういう土地開発業者としての康次郎のところへ、或る日、

 ――武蔵野鉄道の経営をしないか。

 という話が来たことは、ここでは特筆されるべきだろう。なぜならば、これがつまり康次郎と池袋との邂逅の機だからである。

 武蔵野鉄道はこのとき池袋-吾野(あがの)間という約60キロの路線を持っており(後述する)、その沿線に100万坪の土地を持っていた。ただし破産寸前だった。康次郎がその経営を引き受けたのは、まちがいなく、鉄道よりも100万坪のほうに興味があったのだろう。

 引き受けてみると経営状態はほんとうにひどく、あんまり借金が多いため大きな駅には連日、貸し手の使いが来て、窓口で運賃収入のたまったところを持って行ったという。客の前にもかかわらずである。結局、康次郎は、その立てなおしに成功した。

 武蔵野鉄道は、生き永らえた。ほかの会社と合併して、戦後は「西武鉄道」という名になり、現在にいたる。

 だから最初のときの池袋-吾野間は、現在の西武池袋線ということになる。練馬、所沢、飯能を経由する。北を上にした地図で見ると山手線の左肩から左上へのびるような感じであり、吾野の先も秩父までのびた(秩父線)。

 これに加えて、昭和29年には、営団地下鉄丸ノ内線が開通したことは冒頭で述べたとおりである。これにより池袋はようやく例の、円周上、円外、円内の3条件をみたして大都会の様相を呈しはじめた。

 大ターミナル、と言いかえてもいいだろう。だが渋谷とくらべるとどうか。渋谷はそれこそ、

 ――王国。

 と呼ぶことができるほど東急色が濃厚だけれども、池袋には、現在にいたるまで、そこまでの西武色はない。

 もちろん駅前にはお決まりの西武百貨店もあるし、少し離れたところには西武系のプリンスホテルもある。だが、ほかには目立つものはないのではないか。池袋では西武は影の存在に近いのだ。

 たぶん堤康次郎には、あるいは康次郎の死後に西武鉄道の事業を継いだ三男・堤義明には、ターミナルの開発そのものに対する興味がとぼしかった。そういうことだろう。いったいに鉄道屋はターミナルの開発をこのんでやり(そのほうが乗客がふえるから)、不動産屋は沿線の開発をこのんでやるものだが(そのほうが土地の価値が上がるから)、その意味では、堤父子はどこまでも鉄道屋ではなく不動産屋だったのだ。

 別の見かたをするならば、渋谷というのは鉄道屋である五島慶太に「手塩にかけられた」街である。いっぽう池袋は、養育放棄された街であるとまでは言わないにしても、何かしら不良少年になってしまったような空気がある。

 精神が未整理な感じがある。もちろん都会であるからには雑然とした風景、ごちゃごちゃした雰囲気はむしろ当然なのだけれども、その雑然に対するだけの総括感がないということか。むろんそれが池袋の魅力でもある。整理され統一された風景ばかりが都会の魅力ではないのである。

 堤康次郎には、もうひとり後継者がいる。

 西武グループから流通部門のみを切り離して継承した次男・堤清二である。清二の事業の中核は西武百貨店だったけれども、何しろ辻井喬のペンネームで活躍した詩人・作家でもあるだけに、商売に文化の香りを持ちこむセンスが抜群だった。

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渋谷PARCO(2001年撮影)

 その堤清二が、或る時期から、しきりと渋谷へ進出しようとした事実は興味ぶかい(最大の成功は渋谷パルコ)。彼にはもちろん東急への敵愾心もあっただろう。弟の堤義明に対する愛憎の念もあったろう。だがそれ以上に、そもそも彼の理想とする文化の姿には池袋という街の性格はあまり合致しなかったように思われる。

(連載第23回)
★第24回を読む。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。

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