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鈴木亜美さんロングインタビュー「自分の道って何なんだろう?」歌手・アイドル→DJ→YouTuber…40歳からの目標は?

YouTubeなどで「激辛女王」として人気再燃中の鈴木亜美さん。今年は5年ぶりにオリジナル曲を発表するなど、多方面で活動しています。デビューから間もなく25年。歌手休止期間を経て、世界を見据えたDJ活動を展開するなど、この間に辿った激動のキャリアとプライベートについて、じっくり伺いました。(聞き手・構成=小泉なつみ/ライター)

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――9月に5年ぶりとなるオリジナル曲『Drip』を発表しました。それまで歌手活動はしばらくお休みされていたとか。

鈴木亜美さん(以下、鈴木) 今回、台湾映画の主題歌としてオファーをいただいたのですが、近年、歌手としてリリースはしていなかったので驚きました(笑)。もちろん嬉しかったしありがたかったのですが。

――鈴木さんといえば、今は激辛好きなキャラクターのイメージが強いかもしれませんね。歌手活動から遠のいていた理由は?

鈴木 16歳でデビューして20年以上芸能界にいますが、デビューした98年はCD市場の売れ行きが最も好調だった時で、新しいアーティストが毎年たくさん生まれては売れていってという、めまぐるしい時代でした。本当に厳しい世界だということを肌で感じていたので、自分の居場所は早晩なくなるだろうと思っていました。それこそ、結婚して辞めるんだろうな、みたいな。

 デビュー10周年を迎える少し前の、2006、7年頃だったと思います。「自分の道って何なんだろう?」と真剣に考え出しました。

 加えて、3カ月おきにシングルを出してアルバムを出してツアーをして、みたいな流れにもどこか違和感を覚えはじめていたんですが、大きかったのは、歌う曲と自分の好きな音楽のジャンルが離れていった部分です。

――鈴木さんの曲はポップスでメジャーな印象がありますが、ご自身が好きで聴いていた音楽は全然違うジャンルだったと。

鈴木 もちろんポップスは好きですが、私自身がよく聴いていたのはハウスやテクノだったんですね。それで歌手活動をお休みする前に、中田ヤスタカさんに楽曲を作ってもらったりして、自分の好きなクラブミュージック寄りにテイストを変えていった時期がありました。

 それを最後に、自分自身が歌う、という意味での音楽活動は一度ストップしようということになりました。2009年頃のことです。

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鈴木亜美さん(写真=末永裕樹/文藝春秋)

――それまで第一線で活躍してきた「歌手」としての活動を止めるのは怖くなかったですか。

鈴木 テレビみたいな大勢の目に触れる場所からは遠ざかっていくだろうな、という直感はありましたが、それと同時に「何か新しいことに挑戦したいな」とも思っていました。

 その少し前に、中田ヤスタカさんがDJをやっているところに私がシークレットゲストで出て、中田さんの作ってくれた楽曲を披露する機会があったんです。そこで中田さんのDJ姿を見て、「あ、かっこいい。これやりたい!」とビビッときて。自分の曲をDJプレイでかけて披露するという、ライブとは違う形がひらめきました。

 DJなら自分の曲もかけられるし、好きなクラブミュージックもかけられると思って、それで20代後半は一気にDJ活動に走った感じですね。やってみたら、自分の好きな音楽をずっと触っていられるということが思った以上に楽しくて、DJでしばらく頑張ってみようと思ったんです。

――メジャーからアンダーグラウンドへの転身で難しかったことはありますか。

鈴木 DJ界はDJ界で奥が深いので、最初はいきなり私みたいな新参者の、しかも芸能人が入ってきたことに対しては冷たかったですね。誰も踊ってくれないし、歓声もなし、みたいな。

――お客さんはDJが鈴木亜美だとわかっていて冷たい態度をとるんですか?

鈴木 もちろん分かっていて、「なんでここに来たの? あんた世界が違うでしょ」みたいな。怖かったですよ。でも、「絶対にこの人たちを踊らせてやる!」と思って2年、3年、4年と頑張って、ハウスネイション(※エイベックス主催の一大ハウスイベント)にも携わっていけるようになって。今度は私主催で女性のDJを集めたイベントをアジアで展開するまでになりました。その時に、こういう裏方的な音楽との関わり方が自分には案外合ってるな、と思いましたね。

――歌手「鈴木亜美」ではなく、制作サイドとして、裏方で働いていこうと思ったのでしょうか。

鈴木 実際にガールズDJで世界を盛り上げていこう、というのが形になってきていたので、このまま延長で制作を極めていこうかな、とも思っていました。

――しかし今また再び、鈴木さんがテレビやYouTubeで引っ張りだこになっていますよね。

鈴木 これは本当に自分でも予想外で、まったく想像していませんでした。特にテレビでがんばろうという気もなかったし、とにかく当時はDJイベントを成功させたい一心だったんです。

 でもそんな時にたまたま今の夫に出会って結婚となり、それをメディアに発表したら予想以上に反響がありました。結婚・妊娠・出産をきっかけにまたテレビ出演が増えていって、料理や激辛などで取り上げてもらえるようになったんです。

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――2016年に結婚されたパートナーの方はどんな方ですか。馴れ初めも教えて下さい。

鈴木 旅先のシンガポールのバーでナンパされたのがきっかけです(笑)。4日間遊んで、最後の日に交際を申し込まれました。彼はまったく芸能界に興味がない人で、私のことも知らなかったんです。

 芸能の仕事に関しても「頑張って」という感じで、特に何も言わないですね。子どもがテレビに出た時はしっかり録画して見るけど、私のソロに関してはまったく興味がないので、出演した番組も一切、見ない(笑)。だから私がどんな番組に出て何を喋っているかとか、本当に何も知らなくて。

 この前『人志松本のツマミになる話』(フジテレビ系)で、洗濯物の生乾き臭が気になる夫が自分のTシャツを煮沸消毒していた、という話をしたのがちょっと話題になったみたいなんですね。でも本人は周りから言われてはじめて、自分の話をテレビでされていたことを知る、みたいな。まあ、私としてはそれくらいの関心の低さでいてくれる方が気楽でありがたいです(笑)。

――今お子さんは4歳と1歳だそうですが、鈴木さんのお仕事は知っていますか?

鈴木 長男はわかってますね。3歳くらいからテレビに出ている私を見て、「あ、“鈴木の”亜美ちゃんだ」って言ってました。

――“鈴木の”亜美ちゃんなんですね。

鈴木 本名は名字が違うので、「“鈴木の”亜美ちゃん」がテレビに出ている方、お母さんとはちょっと違う、みたいな認識です。だからテレビ見ながら母子で「“鈴木の”亜美ちゃんだね~」と話している感じです(笑)。

――仕事と子育ての日常はどんな感じですか。

鈴木 マネージャーさんには毎日16時くらいまでには仕事を終えられるようにお願いしていて、基本的に私が保育園の送り迎えをしています。難しければ夫やおばあちゃんに送迎を頼んで、夜は22時には寝ています。DJ時代から、生活時間帯が正反対になりました。

 産後は脱毛もひどかったし、一気に白髪も出ましたよ。そのあたりは世の中の働くお母さんと同じだと思います(笑)。ただ産後3カ月で復帰が控えていたので、ダイエットはがんばりました。

――そんなハードな日々の中で、激辛好きが仕事になっていった経緯は?

鈴木 辛いのは昔から好きで、10歳の時、ラーメンに豆板醤をいれたのがその起源です(笑)。それでもずっと、自分の辛いもの好きが異常なレベルだという意識はまったくなかったんですね。そんな時、テレビ番組で用意されたとんでもなく辛い料理を平気で食べていたことをきっかけに、スタッフの方が「激辛好きを押してみたらどうか?」と気づいてくれたような感じでした。

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――DJにしろ激辛にしろ、やっぱり好きなことが仕事になっていっているんですね。

鈴木 頑固なんだと思います。基本的に好きなことじゃないと続かないんですよ。だから、自然と興味が向くままやっていると、周りのスタッフさんが「じゃあここを伸ばそうか」とアドバイスしてくれて、自分の趣味が仕事につながっている感じです。

――では今現在は、「歌手」というかつての肩書きについてどんな風に受け止められていますか?

鈴木 そうですね。逆に今は「歌手」って書かれたら恥ずかしいですね(笑)。たしかに自分の立ち位置はちょっと不思議だなと思いつつ、「激辛女王」は、胸を張って名乗ってもいいのかなと思ってます(笑)。

――1998年、『ASAYAN』(テレビ東京)のヴォーカリストオーディション・ファイナルで1位となったことがデビューのきっかけですよね。東京だけでも5000人以上の応募があったという激戦を勝ち抜いた、その瞬間の心境はどんなものでしたか。

鈴木 正直、あんまり覚えてないんですよね。『ASAYAN』は本当にガチな番組で、私自身もオンエアで自分が選ばれたことを知ったんです。

 そもそも応募したのも勢いというか、私が歌手に憧れていることを知っている友達が“みんなで行こうよ”と背中を押してくれて、「ファイナルだから応募しとこう!」みたいな感じで。友だち数名と一緒に揺れる電車の中で履歴書を書いて、学校の教室の椅子の上に乗ってピースしている、スナップ写真のような全身写真を貼って応募しました。

 小室さん(プロデューサーの小室哲哉さん)からも、「亜美の履歴書の全身写真、ほんとあれナメてるな~と思ったんだよ」と言われましたね(笑)。スタジオでプロのカメラマンにちゃんと撮影してもらってる人が多かったみたいで、逆に普通の女子高生っぽさが際立ったみたいです。

――当時は歌手になることが夢だったんですか?

鈴木 歌やカラオケが好きな一家で、私も小さい時から歌うことが好きでした。でも芸能界とかには無縁の、本当に普通の家です。むしろ、普通よりかなり貧しかったと思います。両親は若い時に結婚して、25歳までに私含めて3人の子持ちになったので、生活は大変だったと思いますね。

――小さい頃のご家庭の様子で印象に残っているエピソードはありますか?

鈴木 お風呂のお湯を節約していたり、あとうちは近所のお兄さんお姉さんのおさがりをもらっていたので、新しい服を着ている友だちを見ると、「うちってやっぱ貧乏なんだなあ」と思ってました。

 父は早くに社会に出ましたが、思うように仕事に就けず、苦労して一歩ずつ階段を登っていたような人。だから歌手になることは全面的に応援してくれていましたが、学業だけは疎かにしてほしくない、と言われていました。

――そんな中で高1の冬にデビューが決まって、生活は激変したのでは。

鈴木 当時のテレビは今とは違って、自宅や周辺がモザイクなしで放送されていました。おかげですぐに家の場所が特定されてしまい、『ASAYAN』の放送以降、家に人が押しかけたり電話が鳴り止まなかったりと、いろいろ大変でした。

 地元の神奈川県の高校に通っていましたが、学校も大騒ぎになってしまって対処しきれないということになり、芸能コースのある東京の高校に転入しました。

 ただ厳しい学校でしたし、父の願いもあり、どんなに仕事が忙しくても学業との両立は絶対でした。試験も修学旅行も全部参加したので、高校時代は毎日睡眠時間が2、3時間というハードな生活でしたね。

――そうして98年の2月にデビューが決まってから、7月に『love the island』でCDデビュー。9月にはセカンドシングル『alone in my room』、11月に『all night long』、12月には『white key』と、半年足らずの間に4枚ものシングルをリリースするという凄まじいスケジュールでした。“鈴木あみフィーバー”な日々を当時、どのように捉えていたのでしょうか。

鈴木 オーディションに合格した時からすごい嬉しくて楽しい反面、いつか来る終わりもうっすらと感じていました。たとえて言うと、夏休みも、始まってすぐはウキウキしているけど、その瞬間から終わりに向けてのカウントダウンもスタートしていてちょっと切ない、みたいな感じでしたね。

――達観した高校生ですね。どこかでその人気に陰りが見えることも予期していたと。

鈴木 始まりには終わりがある。だからこそ、その終わりが寂しくならないよう、次のことを楽しみに変えていこう、みたいに考える癖が小さい頃からあって。人生は長距離走のようなものなので、物事を短いスパンでは考えないようにしているのかもしれません。

 デビューした時はアイドルのような感じだったので、「アイドル・鈴木あみ」は数年で終わりなんじゃないかと最初から思っていました。だからそこから先はどうしようかと、デビューした瞬間から考えていたような気がします。

――“そこから先”について、20歳の頃はどんなことを考えていましたか。

鈴木 20歳に近づくにつれ、子どもから大人になって、アイドルからどう脱却していくのか。ずっと歌手としてやっていくのか、それとも女優業に進出するのか、タレント活動していくのか。私自身、「これだ!」という方向性がまったく見えていませんでした。

 それまでは小室さんプロデュースのリリースが続いていて、息つく暇がないような日々で。でも20代の頃にいったん芸能活動をお休みさせていただき、じっくり腰を据えて自分に向き合えたあの3年間は、振り返ってみればいい時間だったと思います。

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――プロデューサーだった小室哲哉さんとは、キャリアの話などをしたのでしょうか。

鈴木 小室さんは夜型でお仕事をされていたこともあり、当時高校生だった私とはなかなか生活時間が合わないんですよね。当時は小室ブームでもあり、歌番組のスペシャルとかでしか直接会う機会はありませんでした。

 逆に大人になってからの方が私も普通に小室さんと接することができるようになったので、ふとお会いした時に昔話をするような感じです。「亜美はほんと子どもだったよね~」とか「いつも制服でレコーディングスタジオにいたね」とか。

――鈴木さんから見た小室さんはどんな方ですか。

鈴木 小室さんって、うちの親のひとつ上なんです。そういうこともあって、私はこの業界のお父さんだと思っています。怒られたり怖いと感じたことなんて一度もなくて、本当に優しくておっとりしている方で。あんなに忙しいのに喋るペースがめちゃくちゃゆっくりだから、取材が時間内に終わらないんじゃないかと、こっちがハラハラしちゃうくらい(笑)。多忙でもご自分のペースを乱さない方ですよね。

 すごく嬉しかったのは、セカンドシングル『alone in my room』のジャケット写真を私に選ばせてくれたこと。写真が何枚か並んでて、「亜美はどれがいい? 僕はもう若い子の感覚がわからないから」と言って、私の意見を聞いてくれたんです。その時選んだのが、真正面を向いている写真じゃない、ちょっと横を向いてふくれっ面をしているような表情のものでした。そうしたら小室さんが、「これを選ぶセンスが僕にはもう分からないんだよ」と話していたのが印象に残っています。

――『love the island』、『BE TOGETHER』など、小室さんプロデュースの曲はいまだに高い人気がありますよね。レコーディングの時などに、「これはヒットしそう」とわかるものですか。

鈴木 いや、全然わからないです(笑)。私は新曲を覚えるのに必死で、当時はそんなことを考えられる余裕はなかったです。ただ4枚目のシングル『white key』は最初に聴いた時、デモを歌っている女性の方がすごく上手で、「ああ、いい曲だな」と思いました。やっとはじめて余裕が出てきたのがこのあたりだったのだと思います。

 今は私の子どもも、『BE TOGETHER』を歌えるんです。『BE TOGETHER』は、はじめてオリコン1位になった曲で、今でもリクエストしてもらえることが多いし、めちゃくちゃ盛り上がってもらえて。

 やっぱり小室さんの曲は凄いですよね。当時も、大人になった今でも歌えて、ライブでも通用する。歌詞の内容も、大人になっても共鳴できる。本当にすごい宝物をもらったなと思っています。

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――16歳からを振り返ると、鈴木さんのデビュー25周年も目前ですよね。こんなに長く芸能界でお仕事されるというのは想像していましたか。

鈴木 いや、していなかったですね。デビュー10周年の時も、「10年できた」って。だから一層、感慨深いものがあります。

――来年には40歳を迎えられます。節目を前に、心境の変化などはありそうですか?

鈴木 そういえば『ASAYAN』のオーディションで1位になって両親と小室さんにごあいさつに行った時、親が39歳で小室さんは40歳の年でした。たしか番組でも「(年齢が)親よりも上」と紹介していたと思うんですよ。“業界のお父さん”と同じ年齢になるんだなあと。

 実はフードアナリスト2級の資格を持っているくらい、食べるだけではなく、料理を作るのも大好きで。加えて今年は、スパイス香辛料ソムリエにも合格したので、「激辛」の枠にとどまらず、もっと料理のことを深く掘り下げていきたいなと思っています。 料理関係、これって一生できることですし、40歳からの目標は大きく、「食べるラー油」を超えるヒット調味料を開発すること! そういう普通の、スーパーに置いてもらえる日常的に買えるものを作ってみたいですね。

(写真=末永裕樹/文藝春秋)

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