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永田紅さんのオヤジの話。

著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、永田紅さん(歌人・細胞生物学研究者)です。

うまちゃん

「うまこさん」は、父の顔が長いから、と母がつけたニックネーム。馬ほどは長くもなかろうが、兄と私の子どもたちも、祖父を「うまちゃん」と呼ぶ。

「うまちゃん」は、歌人で細胞生物学者の永田和宏。同じく歌人の母河野裕子によると、出会ったころは「試験管の中に蒸留水が立っているような」純粋で世間ずれしていない感じだったらしく、「葉牡丹を見てキャベツと言った」「サンマとイワシの区別がつかない」というのが母の口癖だった。そんな生活能力のなさそうな父だが、10年前に母が亡くなった後、仕事は愈々(いよいよ)多忙になったものの、感心に法蓮草のお浸しなどを作っている。40年同じセーターを着ているのに気がつかない無頓着さは、やはり変わっていないか。このコロナ禍の在宅勤務の間、洗濯物を天日で乾かす心地よさに目覚めたらしい。天気のよい日、家中のカーテンを洗い、布団を干したと嬉しそうに連絡が来る。

〈しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ〉という母の昔の歌を、あらためて実感することとなったようだ。夜遅く帰宅し、明け方まで仕事をしてまた大学に出る生活では、庭の松葉牡丹も目に入らず、「この家にあなたは住んでいない」と母にいつも詰(なじ)られていた。今やっと、明るい日の射す家を知ったわけだが、そこには妻がいない。

 ふたりだけの老後のために建てたるに
 ふたりとふ贅沢を沁みて思ふも
              永田和宏

「俺の人生って、河野裕子に出会ったことが、そのすべてだったという気がするな。もうサイエンスも何もかも全部除けて、河野に出会ったこと、それだけでいい。後は全部付録でいいやって」(角川「短歌」2017年インタビュー)と臆面もなく発言するあたり、娘ながら切なくも笑ってしまう。

大学2年生のとき、学生として父の「細胞生物学」の講義を受けたことがある。お互い、居心地が悪いような誇らしいような、ちょっとふしぎな体験だった。

「迷ったら面白そうなほうを選べ」とよく言う。呆れるくらいなんでも面白がっている。一緒に話していると、アイデアがどんどん展開してゆく楽しさは、随一。物心つく前に結核で母親を亡くしたことが、生い立ちに影を落としているに違いないのだが、いじけもせず精神が健やかなのは、根がポジティブなのだろうか。

(2020年7月号掲載)



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